誰もが何かに寄りかかって生きている。出た大学とか、勤めている会社とか、ネトウヨの場合は日本ということになる。だけど子供時代というのは、何に寄りかかるべきなのか判然としない時期で、だからこそあの時は濃密な時間が流れていたということはあると思う。

ドミートリーは酒場で酔っ払って、スネギリョフっていうオヤジに因縁をつけた。相手のあごひげを引っつかんで、酒場の外まで引きずり出した。そこに学校帰りのスネギリョフの息子が通りかかった。その子は9歳。
スネギリョフの回想。

「あの子は手前のそんなざまを見るなり、とんできて、「パパ、パパ」と叫びながら、しがみつき、抱きついて、手前を引き離そうとしたり、手前を痛めつけている相手に「放して、放してあげて、これは僕のパパなんです」と叫んだりいたしましてね。「赦してちょうだいよ」と言うなり、ちっちゃな手でお兄さまにすがりつくと、ほかならぬお兄さまの手に接吻するじゃございませんか」

スネギリョフの息子はこのこと以来、学校で馬鹿にされるようになる。親父のあだ名が「へちま」になって、へちまの息子って言われる。
これはきつい。
小さいながらも彼は父親の名誉を守るためにクラスの中で孤立してしまう。

ドミートリーの弟のアリョーシャがスネギリョフの家に、200ルーブル持って謝りに行く。そのときのスネギリョフの発言。

「軽蔑されてはいても高潔な心を失わぬ貧乏人の子供というものは、生まれて9年かそこらで、この世の真実を知るんでごさんすね。うちのイリュージャは広場でお兄さまの手に接吻したあの瞬間、まさにあの一瞬に真理をすっかり究めつくしてしまいましたんです。そしてその真理があの子の心に入り込み、あの子を永久にたたきのめしたんでございます」

イリュージャという男の子は寄りかかるもののない虚空のなかを真っ直ぐに堕落して、生々しい真理に到達した。これがスネギリョフの言葉の迫力を生む。この迫力には、何かに寄りかかっているものどうしがいくら会話を積み重ねでも、決して到達することはできない。

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