「カラマーゾフの兄弟」を最初に読んだのは、もう30年も昔、16歳の時。その圧倒的なリアリズムに驚嘆した記憶がある。そして私の短くない読書人生の中で、「カラマーゾフの兄弟」以上の本に出会ってはいない。この本の一体何がすごいのか? その辺のところを今日から何回かに分けて書いていこうと思う。

ゾシマ長老に対するある貴婦人の発言

「来世信仰なんていうものは、それは全て最初は恐ろしい自然現象に対する恐怖から起こったもので、そんなものは全然ないのだ、などと説く方もおられますわね。いったい何によって、来世を証明できるのでしょう。あたくし、あなたの前にひれ伏して、その回答をお願いするために、今こうして参ったのでございます」

この貴婦人の問に対する、ゾシマ長老の回答

「証明は出来ませんが、確信は出来ます。実効的な愛を積むことによってです。やがて完全な自己犠牲の境地にまで到達されたなら、その時こそ疑うことなく信ずるようになるのです」

この問答は結局、人間の認識と現実世界はどのように一致するのかという問いに、世界を丸ごと自分の中に受け入れることによってその二つは一致するという、ロマン主義的問答といえるだろう。現代においても有力な一つの回答だと思う。スマートな生き方だ。人間の認識を制限されたものであると宣言する人は信用されやすい。大きい意味で空気を読んでいるということにもなるだろう。

これに対して、空気を読まないという選択肢もありえる。カラマーゾフ3兄弟の父親、フョードル.カラマーゾフなる人物は馬鹿ではないくせに空気を読まないという特別設定の人間だ。上品さよりも誠意を優先すると宣言して、場所柄をわきまえず本当の事を言ってしまう。
修道院内のゾシマ長老を囲む会合で、フョードルはこんなことを言ってしまう。

「あの女は若いころ、環境にむしばまれて身をもちくずしたかもしれないけど、でも数多く/愛しました/からね、数多く愛した女はキリストもお許しになったではありませんか。神父さん、あんたがたはここでキャベツなんぞで行いすまして、自分達こそ敬虔な信徒だと思ってらっしゃる。一日一匹ずつウグイを食べて、ウグイで神様が買えるとおもっているんだ!」

せっかくゾシマ長老がロマン主義で世界を収束させようとしていたのに、もうめちゃくちゃだ。フョードルは要所要所でこれをやる。

「カラマーゾフの兄弟」とは収束する物語ではなく、収束を拒否する物語だ。そしてこの現実世界において、収束する現実なんていうものがあるだろうか? ある人間が自分の思ったとおりの人間に収束するということがあるのだろうか? 

拡散する物語「カラマーゾフの兄弟」。


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