ニーチェの「権力への意思」は、ニーチェの死後にその遺稿をニーチェの妹がまとめたもの。このニーチェの妹、エリザベートというのだけれど、後世の評判があまりよくなくて、それに伴って「権力への意思」という本の評価も低めだ。

しかし実際読んでみての内容は素晴らしい。



【「権力への意思」解説】

ニーチェが難解だとされるのは、言っていることが難しいというのではなく、まあ何というか、誰もが持っている固定観念を、誰もが相対化できないからだと思う。


人間というのは、それなくしては生存できないような観念を、普遍的真理だと思い込む習性がある。例えば、潔癖症の人が手を洗ってばかりいたとする。正常とされる人は、そのような人を不思議に思う。そんな手が荒れるまで洗う必要もないのにと。しかし、潔癖症の人にとって、手を洗うことが自分の生存を保障すると確信していたとするなら、その人にとって手を洗うことは真理となるだろう。

キリスト教などのような一神教の宗教を信じる人は多い。キリスト教を信じなければ、社会の一体性や秩序が保てないとするなら、その社会においてキリスト教は真理となるだろう。

原因と結果が転倒している。もう一発いこう。

1という数は1だ。1が1ではないなどということはありえない、と普通考える。しかし、1がいつでもどこでも1であるということは、いったい何によって保障されているんだ? 

何によっても保障されてはいない。

人間個人にとって、その自己同一性と、1がいつでもどこでも1であるということはリンクしている。1=1というのは、何らかの真理何らかの原因というものではなく、社会がその維持のために個人に要請している自己同一性というものの結果なんだよね。

このような考え方が正しいとか正しくないとか、そのような判断はおいといてだよ、この予備知識をもってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」484

「思考作用がある、したがって思考するものがある、デカルトの論拠は結局こういうことになる。しかしこのことは、実体概念に対する私たちの信仰を当たり前のものとして設定することに他ならない。デカルトのやりかたは、達せられるのは何か絶対に確実なものではなく、一つのきわめて強い信仰の事実にすぎない。このデカルトの形式においてでは思想の仮象性を退けることはできない」

デカルトの「我思うゆえに我あり」というやつ。ニーチェは、これを当たり前ではないと言う。「我思うゆえに我あり」と認識するためには、認識主体に何らかの一体性がなくてはいけない。しかし、この一体性というものはあたりまえではない。

「我思うゆえに我あり」という言説は、正確に語るなら、「我思うゆえに我あり」と認識できる程度の自己同一性を、近代世界に参加する人なら備えておくべきだ、という価値判断なんだよね。

ではなぜ私たちは、たんなる価値判断を真理だと思ってしまうのか。

それは社会的要請だろう。近代という厳しい時代では、社会秩序を維持するために個人の自己同一性というのが、かつての時代よりもより必要とされているということだろう。

田舎の話なんだけれど、今から40年ぐらい前は、頭のおかしい人というのは案外その辺をふらふらしていて、地域の人もひどく悪いことをしないのなら、まあしょうがないよね、みたいな雰囲気があった。福沢諭吉の「福翁自伝」のなかに、村の中をふらふらするキグルイ女の話があった。「カラマーゾフの兄弟」でのスメルジャコフの母親は、村のキグルイ浮浪女だった。

現代ではもうありえない。

かつて個人の自己同一性というのは、あればよりいいという程度の価値判断だったのだろう。ところが現代では、自己同一性の価値が高まって、ほとんど真理のような扱いだ。自己同一性のあやしげなやつは、とりあえず排除の勢いだ。

いいとか悪いとかいう物ではないのだけれど、単なる価値判断が真理かのように語られるということはある。ニーチェは、真理だと思われているあらゆるものは、単なる価値判断だ、というのだけれど。

近代教育は、近代人にふさわしい知識を与えるところの教育であり、発展途上国なんかは、教育制度が整備されていないからいつまでも途上国であると考えられたりする。現代日本においても、教育、啓蒙というものには、かなりの価値比重が与えられている。

しかし、この現代教育における啓蒙の比重というのは、はたしてふさわしいものなのだろうか? 

精神科医の木村敏による、人間の存在構造についての仮説。

3層に分かれている、というもの。最下層は外界と直接接するところの、生存本能や情動が支配する世界。これは全ての生物に存在する。

第2層は、その種に特有の価値判断によって、情報がカテゴリー化されている世界。これは、犬や牛や馬にも存在する。牛は馬には興味が全くないらしいが、牛同士は興味が存在するらしい、見つめあったりするし。価値の差異というのが存在するのだろう。

人間の最上層は論理の世界。合理的推論が支配する。

人間の存在構造とは、最下層からエネルギーを調達しながら、第2層と最上層との情報の循環が、人格というものを形成するという。

精神疾患を図式的に理解するなら、最下層からのエネルギーの調達が弱いと、分裂病になり、第2層と最上層との接続が弱いと境界例になり、第2層の形成が弱いと離人症になるという。

例えばこのような仮説があるとして、教育的啓蒙というのは、最上層の論理世界にしか影響を及ぼせないわけで、啓蒙と言うだけでは人格の十全な形成には不十分だということになる。啓蒙が無条件に真理だということはありえないわけだ。

職場とかにおかしいヤツっていると思うんだよね。話が通じないみたいな。

なぜ話が通じないのか? 可能性は2つある。

おかしいヤツの人間存在構造の最上層以下のどこかの部分がいかれているか、もしくは、自分自身の存在構造のどこかがいかれているか。

現代においては、何が普遍的観念なのか、かつてに比べて怪しくなってきている。さまざまな意見の百家争鳴がこの自由世界のいいところだという意見もあるだろうが、それは社会の一体性というものの犠牲の上に成り立つ論理となってしまった。

ニーチェはこのようにぐらついた世界観を一掃して、新しい秩序を形成しようとしていたのだろう。すなわち、ニーチェ哲学には二つの柱がある。全ての価値観を相対化するということ、相対化された世界に新しい価値世界を形成するということ。

全ての価値観を相対化するということについては、よく語られる。ポストモダニズムのネタ元というのはだいたいにおいてニーチェだ。フーコー柄谷行人も、ニーチェのパクリだと言われてもしょうがない部分がある。

「相対化された世界に新しい価値世界を形成するということ」

ニーチェのこの部分については、あまり語られない。だからここで、「権力への意思」の第4書「訓育と育成」のなかから、ニーチェの構想を紹介してみたい。

ニーチェの構想は2つあると思ったね。一つ目。「権力への意思」898にこのようにある。

「この平均化された種は、それが達成されるやいなや、是認されることを要する。それは、主権をにぎる高級種に奉仕しているのであって、この高級種は、それを地盤としており、それを地盤としてはじめておのれの課題へと高まることができるからである。彼らは、その課題が統治することにつきる君主種族であるのみならず、おのれ独自の生活圏をもっている種族であり、美、勇気、文化、最も精神的なものにまでおよぶ手法のための力をあり余るほどもっている種族である」

高級種と枠組みを区切っているあたり、生活圏という言葉から、ナチス思想の起源であることは明らかだろう。一つの考え方ではあると思うけれども、いうなれば覇道だね。

では、二つ目。「権力への意思」980

「価値評価の立法者である哲学者。哲学者を、偉大な教師であり、孤独の高所からいく世代かの長い連鎖をおのれのところへと引き上げるほど強力であると考えるなら、その人は哲学者に偉大な教育者の不気味な特権を認めなければならない。教育者というものは、おのれ自身が考えていることをけっして言わない。そうではなくて、つねにただ、彼が教育するものの利益を考慮しながら、ある事柄について考えていることを言うにすぎない。このように偽装するので彼の本心は推測を許さず、彼の真実性が信ぜられるということは彼の名人芸に属する。  そのような教育者は善悪の彼岸にいる。しかし誰一人としてこのことを知ってはならない」

王道だ。しかし、これほど難しい道はない。ニーチェでさえ、さらにいえば、ニーチェ程度ではこの「王道の書」を記すことはできなかった。

私は思うのだけれど、古代と近代って似ているところがあるよね。普遍観念で広範な地域で社会の秩序を維持しようとするところ。プラトン哲学って、いうなれば覇道だよね。枠組みを区切ってその中で観念世界を形成しようとする。その考えはローマ帝国に引き継がれて、ローマ帝国は最後は滅び、そして二度と復活しなかった。

ギリシャ哲学の覇道なるが所以だろう。

現代の日本も含めての西洋文明というのが、まあ何百年後かに滅びたとして、かつてのように中世に移行したとして、おそらくローマ帝国末期のように悲惨なことになるだろう。

アウグスティヌスはアッティラのことを神の鞭と表現していた。

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