村上春樹「海辺のカフカ」の辛口レビューです。



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あらすじは、東京に住むカフカ少年が家出して、高松の図書館に居候することになり、その館長の女性と仲良くなるというもの。話としてはこれだけなんだけれど、構成とか作品の意味についてもう少し説明してみたい。

家出して四国に住みついた15歳のカフカ少年のパートと、子供のころの事故でネコと喋れるようになった初老のナカタさんのパートとが交互にくり帰されるという構成。


このカフカ少年パートがメインパートだと思う。15歳カフカ少年は家出して、まあいろいろあって高松のしゃれた図書館に居候することになる。そこの館長は佐伯さん(女性 52歳)、職員は1人で大島さん(男性? 21歳)。

この大島というヤツはカフカ少年を助けていろいろ人生の教訓とかを語ったりするのだけれど、読者的には話がだるい。

大島君は想像力のない人間は嫌いらしい。
しかし彼自身の語りの内容というのが、

「いかなる人間も同時にふたつの違う場所には存在することはできない。それはアインシュタインが科学的に証明している」

とか、

「ルソーは人間が柵をつくるようになったときに文明が生まれたと定義している。まさに慧眼というべきだね」

とか、権威のヨイショなしには論理を持ち上げられないレベルだ。これで想像力のない人間は軽蔑に値するとか、よく言えるよねと思う。こいつの話は読む価値はない。

この大島はよく喋る。大島の喋った内容をまるごと削ったとするなら、「海辺のカフカ」でのカフカ少年のパートは半分ぐらいになるだろう。

高松の図書館の館長佐伯さん(女性 52歳)には互いを理解し合えるような幼馴染がいたのだけれど、彼は二十歳の時に事故死してしまう。それ以降、佐伯さんは孤独に生きているのだけれど、これはもう「ノルウェイの森」のキズキと直子だろう。

「ノルウェイの森」では、キズキは18ぐらいの時に自殺して、残された直子を「僕」は何とか救おうとするのだけれど結局ダメだったという。あれから30年たって直子が佐伯さんとして生きていたら? 「僕」の子供がカフカ少年として15歳になっているとしたら? 

「僕」の15歳の子供が、あれから30年たった直子と結ばれたとして、「僕」は救われるのだろうか?

大島くんは、ギリシャ悲劇オイデプス王の物語まで持ち出して、巨大な円環が閉じるように話を操作しようとしているけれど、やっぱり15歳の少年にとって52歳の女性というのは初体験にはきついのではないかな。読まされるほうもキツイ。ギリシャ悲劇を持ち出して真理は相対的なものだと語ったところで、やっぱり自身の中に価値を持つような相対的ではない種類の真理というは存在するよ。

やっぱり「海辺のカフカ」は「ノルウェイの森」の問題を無理やり解決しようとしているのではないか。

直子は自殺して「僕」は緑に乗り換えた。もうそれでいいじゃないのって思う。時間は循環しない。時間ほど残酷なものはない。

「海辺のカフカ」におけるメタファーを翻訳すると、

彼女が死んで30年たつのだけれど、もしかしたら彼女は生きているかもしれない。僕の遺伝子を継ぐ15歳の息子が、現在50歳の彼女に会いに行く。僕の分身である15歳の息子は、現在50歳の彼女の中に15歳の少女を発見して恋に落ちる。15歳の少年は50歳の彼女を母と思い、15歳の彼女を恋人だと思う。二人は四国の幽玄の山の奥で強く結ばれる。しかし、母であると同時に恋人である彼女は、15歳の少年を四国の山奥から現実の世界へと力強く押し出してくれた。

ということになるだろうが、これは大丈夫だろうか? 突っ込みどころが目白押しではないだろうか。

結局、「海辺のカフカ」は「ノルウェイの森」の蛇足だと思う。

「ノルウェイの森」で直子は「僕」に、

 「あなたに私のことを覚えておいてほしいの」

と言う。女性のこのような自己愛的な発言は、男的にはイライラすると同時に詩的なものがある。本来ならこのような女性の謎を解いてはいけない。

「海辺のカフカ」で佐伯さんはカフカ少年に

「あなたに私のことを覚えておいてほしいの。あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほか のすべての人に忘れられたってかまわない」

と言う。言葉が付け足されてない? これがシンボルメタファーとしての蛇足ですよ。



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