「魔の山」は1924年出版だが、内容は第一次世界大戦(1914)前という設定になっている。

トーマスマンは主人公のカストルプ青年を平凡だという。 では平凡とは何なのか? この本の中でトーマスマンはすばらしい答えを用意していた。以下に引用する。

「私たち人間は、個人生活を営むだけではなく、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な基礎を自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのために損なわれるように感じることは、大いにありえることである。私たちの全ての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。「なんのために」という問いにたいして、時代から納得できるだけの答えを与えられないのに、初めから提供されているものの域をこえた仕事をする考えになるには、世にもまれな英雄的な倫理的孤独と自主性、もしくは頑健無比な生活力のいずれかを必要とした。カストルプ青年は、そのどちらも持ち合わせていないという意味で、やはり平凡であったと言うべきだろう」

平凡とは、一つの時代に生きてその時代の雰囲気を当たり前だと思う、ということになる。これは誰もがそう、誰もが平凡。時代の雰囲気と言うのは、強力にそこに暮らす人を拘束していて、普通逃れることはできない。

ところが、時代の変わり目に生きて、時代の基調の変化を明確に体感するという特別鋭敏な人がいる。日本で言えば福沢諭吉だ。

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

この福沢の言葉は、時代は変わること、しかし時代は強力にそこに暮らす人間を規定していること、をあからさまに表現している。

トーマス・マンの言おうとしていることも同じだろう。第一次世界大戦の前後ではヨーロッパにおける時代の基調というものは異なっている。世界大戦前まではヨーロッパにおいていまだ貴族主義的な意識は濃厚だった。ところが世界大戦は総力戦の様相を呈し、労働者が戦場に赴く中、貴族的態度などというものはほとんど犯罪だとして認められなくなった。

トーマス.マンはこの時代の転換というのを体感したのだと思う。そして世界大戦を体験することなく、雰囲気の転換を表現しようとしての「魔の山」ということになるだろう。これは私の推測というものではなく、上記の「魔の山」の引用文に表現されているだろう。

トーマス.マンはカストルプ青年に二つの世界を体験させようとしている。カストルプ青年が実際に「魔の山」で二つの世界を体験できたのかと言うと、これは実際微妙だね。二つの世界を体験できなかったから、カストルプ青年は最後世界大戦に従軍してしまうのだろう? 

ただ、カストルプ青年は魔の山でこれまで依存してきた世界観を相対化できたというのはあるかもしれない。新しい世界観を受け入れやすくするための準備完了みたいなものだろう。

準備完了はいいのだけれど、第一次大戦後のドイツが受け入れた新しい世界観というのはナチズムだった。

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