村上春樹「ノルウェイの森」は素晴らしいい小説でした。映画化もされたが、やはり小説のほうがいいですね。

主人公の「僕」は、死んだ友人キスギの彼女であった直子と東京で偶然出会う。僕と直子は何度かデートを重ねるのだけれど、直子は精神の不安定な女の子で、ある日突然京都北部の精神療養所に移ってしまう。直子から手紙を貰った僕は、その療養所を訪れる。


僕は療養所へゆく電車の中とかで、トーマスマンの「魔の山」を読む。療養所でも直子が眠った後に「魔の山」のページをめくったりする。

「魔の山」という小説は、カストルプという青年がスイスの結核療養所で何年かすごしたことについての小説だ。「魔の山」は教養小説といわれている。カストルプが療養所で、いろんな人との係わり合いによって成長していくという。

しかし「魔の山」を読んでみれば分かるのだけれど、小説の中でカストルプ青年が、人間として教養人として、実際に成長しているかどうかというのは微妙だ。確かに奇妙な人物たちが様々な言論をカストルプの前で展開はする。しかしそれは閉じられた結核療養所内での言論であって、外の世界で通用するような実践的教養ではない。魔の山でカストルプは、さらに言えば「魔の山」を読んだ私たちは何を学んだのだろうか?


僕は直子をたずねて、京都北部の山深い精神療養所を訪れる。ここは外界とは隔絶されている。まさに魔の山だ。カストルプは何年も滞在したのだけれど、僕は2泊3日。

僕はこの魔の山で、直子や直子と同室のレイコさんと対話をする。この療養所では何でも正直に話すことになっている。人に意見を押し付けたり自分の弱かった過去を隠す必要はない。直子から自殺したキズキとは本当はどのような関係だったのか語られたりする。外の世界ではとても語ることのできないようなセンシティブな話。

外の世界と療養所内では、人を支配するところの雰囲気のようなものが異なる。直子やレイコさんは療養所内の特殊な雰囲気の中でしか生きることはできない。そして、外の世界の人間は外の世界の雰囲気の中で生きる。ところが僕は療養所を訪ねることで、外の世界と療養所の世界、二つの世界の雰囲気を知ることになる。

この二つの世界を知ること、全く異なる雰囲気の世界が同時に存在しえるということを体感すること、これが僕の成長であり、「魔の山」的教養の獲得なんだろうと思う。

魔の山を下りた僕。ここまでが上巻。
以下、下巻。

主人公「僕」は、京都北部の精神療養所に直子を訪ねる。

直子は僕の高校時代の親友であるキズキの彼女だった。キズキと直子は幼馴染であり恋人同士であり、互いに深く結びついていた。キズキは自殺して直子だけが残された。直子は精神を病み、僕は直子を守ろうとする。

互いに深く結び合う男と女とはどのようなものなのだろうか。夏目漱石の「門」に、宗助と妻オヨネとの関係についてこのような表現がある。

「社会の方で彼らを二人ぎりに切り詰めて、その二人に冷ややかな背を向けた結果に他ならなかった。外に向かって成長する余地を見出せなかった二人は、内に向かって深く延び始めたのである。彼らは六年の歳月を挙げて、互いの胸を掘り出した。彼らの命はいつの間にか互いの底にまで食い入った。
二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互いから云えば、道義上切り離す事の出来ない一つの有機体になった」

近代における基本的なルールというのは、自らの価値を自らの中に認めるということだ。いばらの道であり、正直これは誰にでも完遂できることではない。多くの人は幾分か諦めて、地域や伝統や権威に寄りかかり生きていく。幾分か諦めてという自覚があるのなら、これでべつに悪くもない。

ところがこの近代のルール回避のための裏技がある。二人の人間が互いに依存しあえば、孤独という沼を避けて自分の根拠を確認することができる。依存しあう二人の人間とはだいたいにおいて男と女であって、普通これを恋という。ただ依存しあう男と女といっても、恋の始まる前はそれぞれに根拠があるのが普通なのだけれど、根拠無く二人が依存し続ける場合は問題がある。近代において大人になるための代償を払っていないから。

「門」の宗助、「こころ」の先生もそうだし、キズキと直子も同じパターンだ。

キズキは死んで直子は残された。僕は直子を救うために強くなろうとする。僕が自らを強くするための根拠とは、世界を相対化する能力のことだ(これについては私の「ノルウェイの森上」の書評を読んでほしい)。本文にこのようにある。

「おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それに俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かったろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺のほうが強いからだ。そして俺は今よりもっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ」

直子は結局自殺する。救われるには直子は根拠がなさ過ぎた。これはね、メンヘラ女を好きになった男は分かると思うのだけれど、根拠なく依存先を探そうとする人間を救うことは根源的にムリなんだよね。

僕は最後、直子の世界とミドリの世界とのはざまにいる。

例えば、フローベールのボヴァリー婦人は近世と近代のはざまでこのように言う。

「しかしいったい何が彼女をこんなに不幸にしているのだろうか? 彼女を転倒させてしまった異常な禍はどこにあるのか? 自分を苦しめる原因を捜すように彼女は頭をあげて周囲をみまわした」

僕は、直子の世界とミドリの世界とのはざまでこのように言う。

「僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見わたした。僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼びつづけていた」

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