(漫画化もされています。この小説に政治的意味はありません)

伏線回収作業は行わない、という強い意志を感じる小説だった。


主人公の安藤は普通のサラリーマン。犬養というファシズム的政治家が国民の人気を得る中で、安藤は自分のささやかな特殊能力で犬養に政治的ダメージを与えようとするのだけれど失敗してなぜかその後死んでしまう。

その5年後、犬養は総理大臣になっている。憲法改正の国民投票の投票日が近づくなか、安藤の弟潤也は自分に何ができるのだろうかといろいろ考える。

内容はこれだけ。ミステリー要素はほとんどない。確かに安藤兄弟はささやかな特殊能力を持ってはいるが、ささやか故にたいして役にも立たない。ではこの小説に政治的主張があるのかというと別にそういうわけでもない。確かに登場人物たちは犬養の政治手法についてあーでもないこーでもないと語り合う。しかし何か結論めいたものはない。あとがきに著者は、

「この物語は政治に関する特定のメッセージを含んでいません」

と書いてある。この本を読む限り政治的メッセージは読み取れなかったし、著者本人も政治的メッセージは含まれていないと言っているのだから、この小説に政治的主張はないだろう。

伏線を回収しないことで整合性がない、政治的主張がないことで根拠もない。いったいこれはどうなっているのかという話になってくる。


そもそもファシズムとは何か? これは「魔王」内に説明があって、「統一していること」とある。統一していることとは整合性の意味だろう。小説内の整合性とは伏線をばらまいてそれを回収することだろう。伏線をばらまいて最後に回収する小説ジャンルの代表はミステリーだろう。

伊坂幸太郎のデビュー作である『オーデュボンの祈り』は、予言するカカシが二羽の鳩を守るために現在をコントロールしようという話だった。一見心温まる話のように思われるのだけれど、カカシはある一点の未来のために、本来ばらばらであるはずの現在の事象に統一性をもたせようとしているわけだ。これはもうファシズムだろう。

この「魔王」という小説では、ファシズムという統一的意味は犬養に与えられているわけで、アンチ犬養である安藤兄弟は統一的意味から疎外されている。安藤兄弟目線のこの「魔王」という小説は、整合性も根拠もなく、二葉亭四迷的に言えば、

「まとまりのない牛のよだれのようなもの」

ということになる。

伊坂幸太郎は整合性の取れた小説も書けるわけで、この「魔王」のような牛のよだれ小説は、明らかに意識的に書かれている。善意に解釈すれば実験的な小説ということになるだろう。

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