プラトンの「国家」において、ソクラテスは「正義を救ってくれ」と懇願される。どういうことかというと、この世の中、多くの物や観念は何らかの役に立つという理由で存在が許されているわけなんだけれど、「正義」ほどの重要観念ならそれ自身の中に存在の価値を確立して欲しいという。「正義」というものが、人から評価されるとかお金が儲かるとか、そういう下賎な価値で支えられるというのではなく、正義が自らの足で立つにはどうすればいいのかというわけだ。

結論から言うと、プラトンは「正義」とは一体性というものと同義であると言う。

プラトンは国家というもので正義を考える。

国家とは血縁でもない多数の人々が身を寄せ合う集団だ。このような国家において、正義を彫刻するためには、国家の成員たる個々人が能力に応じてやるべきことをやり、優秀な指導者を選抜して全体を秩序付け、外に対しては独立を保つという。

いわれてみると、このような国家の周辺には「正義」が立ち現れているような気がしてくる。

正義を示現する強固な一体性を保持する国家の指導者には、どのような選抜、どのような教育がふさわしいだろうか。

一番よくないのは、物にとらわれるということだ。役に立つから価値が高いだろうとか、そういうゲスな勘ぐりは、一体性の保持を目指す正義国家の指導者にはふさわしくないだろう。価値は、外にあるのではなくその中にあるのだから。

指導者にふさわしい教育というのは、物の価値を見定めることではなく、物のむこうにある真理を感得することだ。

そしてその指導者は、研ぎ澄まされた知性によって、自らの勇気と欲望をコントロールし、確立された自分の一体性、自己同一性によって、国家の一体性を維持する指導が期待される。正義とは、個人においても国家においても、一体性、確立された自己同一性のことだから。

太郎さんが3個のりんごを持っていて、1個食べました。残りは何個でしょう」

こういう問題に、元気に2個、とか答えているようでは話にならない。物のむこうにある真理を感得することが必要だ。「太郎さん」とか「りんご」とか「食べた」とか「何個」とか、そんなものは物の価値であって意味がない。大事なことは、3-2,1 ということだけだ。 これの延長線上に数学がある。


プラトンは理想国家の指導者にもっとも必要な知識は数学だ、という。数学は物にとらわれず、観念のみを展開する知識だから。

近代教育は啓蒙だとよく言われるのだけれど、思い出してみると、高校数学なんて啓蒙の域を超えているだろう。あれは選抜だっただろう。選抜というのはどこにでもあるのだろうけれど、科挙なんかもそうだけれども、数学で選抜と言うのがプラトンの影響を感じる。


日本は別に西洋から教育制度を借りているだけで、実は変幻自在の国だろうと思う。辺境国家の強みだ。しかし西洋自身にとってはどうだろうか。逃れられない呪いとなっているのではないだろうか。近代西洋哲学は、プラトンをひっくり返そうとして、どうしてもそれが出来ない。ヘーゲルもニーチェもハイデガーもフーコーも。


確かにプラトンの言説は強力なのだけれど、「国家」の7章まで読む限りは、どうしても相対化できないというものでもないようにも思われる。しかしプラトンの本領はここからだ。

プラトンは、「正義」とは一体性というものの中にこそあるという。

正直これだけ聞くと、正義を限定しすぎなのではないかと思ってしまう。正義といっても、人によっていろいろ解釈があるだろう。

名誉が正義だったり、お金が正義だったり、自由が正義だったり、快楽が正義だったり。

例えば、今日なんかすごく寒いのだけれど、家に帰って、暑い風呂なんかに入ったりすると、

「あったかいって正義だな」

なんて思ったりしないだろうか。

プラトンは、あえて「正義」とは一体性のことだという。国家の正義とは、国家の一体性のことであるし、個人の正義とは個人の一体性、すなわち自分が自分であるところの自己同一性の確立のことであり、正義の社会システムというのは、国家と個人が互いにその一体性を強化しあうシステムだというんだよね。

このようなことが証明できるのだろうか。そんなことはとても無理だと、普通思う。ところが驚くべきことに、正義の根拠をプラトンはみごとに証明した。


国家と個人が互いにその一体性を強化しあう社会システムが機能しなくなったとき、国家は堕落を始めるという。正義の国家は、名誉支配制国家、金持ち支配制国家、民主国家、僭主国家と、この順番に堕落していくという。この移行していくありさまを、プラトンは詳細に書いているのだけれど、それが近代の歴史そのものだ。全てを説明すると長くなってしまうので、金持ち支配制国家から民主制国家に移行するあたりをここで紹介してみる。


フランスでもドイツでもいいのだけれど、分かりやすいように、日本近代をプラトンの論理と比べてみる。

まず「金持ち支配制国家」とは何かというと、財産の評価に基づく国制だ。かつて日本の明治憲法下においては、選挙も議会も存在はしていた。しかしその選挙制度というものは大正14年まで制限選挙だった。ある一定の税金を納めた成人男子のみに選挙権と被選挙権が与えられていた。このような状況の国家が「金持ち支配性国家」と判断されてもしょうがないよね。

プラトンはこの「金持ち支配制国家」についてこのように言う、

「このような国はどうしても一つの国ではなく、二つの国であらざるをえないということだ。つまり、一方は貧乏な人々の国、他方は金持ちの国であって、共に同じところに住み、互いに策謀し合っている」

戦前の歴史を少しでも知るなら、プラトンのこの言葉がたちどころに当時の日本に当てはまることは理解できるだろう。さらにプラトンはこのように言う、


「金持ち支配制国家においてその支配者は、怠慢な態度で放埓な消費を許しておくことによって、、しばしば凡庸ならざる生まれの人々を貧困へと追い込むのだ」

「こうして貧乏になった人々は、針で身を武装して、この国の中でなすこともなく座していることになるだろう。彼らは財産を手に入れた人々に憎しみを抱いて、陰謀をたくらみ、革命に思いを寄せているのだ」

大正昭和初期には多くの暗殺事件があった。今から考えると不思議な感じがするのだけれど、戦前には戦前の論理があったのだろうと思う。

「このような状態にある支配者達と被支配者達とが何かの都合で一緒になる時に、危険のさなかにあって互いを観察しあうような機会があるとしたならば、そのような条件の下では貧乏な人々が金持ちたちから軽蔑されることは決してないだろう。むしろ逆に、しばしば痩せて日焼けした貧乏人が、戦闘に対して、日陰で育ち贅肉を沢山つけた金持ちのそばに配置された時、貧乏人は金持ちがすっかり息切れして、なすすべもなく困り果てているのを目にするだろう」

戦前の軍部にはびこった下克上ってなんだったんだろうね。制度の問題というより、人間としての力関係に原因があるだろう。このことを指摘した者を、私はプラトン以外には知らないけれども。

結局、金持ち支配制国家はどうなるのかというと、

「貧しい人々が戦いに勝って、あるものを追放し、そして残りの人々を平等に国制に参与させるようになった時、民主制というものが生まれるのだ」

二二六事件の実行犯である湯川康平は、戦後、このように語っている。

「二二六の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

「陛下の記者会見で、
 
記者 おしんは見ていますか
陛下 見ています
記者 ごらんになって如何ですか
陛下 ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
記者 226事件についてどうお考えですか
陛下 遺憾と思っている

遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝されたと」

湯川康平は、分裂した日本国に、陛下は陳謝されたと解釈したわけだ。

プラトンの言説は、なぜこうも当たるのか。ここでは紹介しないが、他の部分も驚くべき予言力を発揮している。古代ギリシャと近代日本との、はるかなる時空を越えてだよ。

答えは一つしかない。プラトンの最初の設定、「正義とは一体性にこそある」というものが正しいからだろう。自由こそが正義だなどという、民主主義の正義というのは甘いということだ。

西洋近代は、プラトンの予言どおり、名誉制国家、金持ち支配制国家、を経て現在民主国家にまでいたっている。民主国家の後に来るのは、僭主制国家だという。

僭主制国家とは、最も悲惨な国家体制だとプラトンは言う。西洋はこの呪いの言葉を解くことが出来るだろうか?

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