論語における「仁」とは何か。 

孔子が仁について語るとき、人によって仁についての表現が異なる。これは、孔子において仁の定義が揺れているというものではなく、孔子が仁概念の一部分をそのつど表現しているからだと思われる。 

仁と関連する概念で「君子」というものがある。 

君子とは、仁をある程度体現した個人のことを言う。仁という概念は抽象的だけれども、君子という概念は具体的なものだから、「君子」を手がかりに「仁」を考えてみたい。  

憲問第十四 386 にこのようにある。    

「子路君子を問う 己を修めてもって敬す かくのごときのみか? いわく、己を修めてもって人を安んず かくのごときのみか? いわく、己を修めてもって百姓(ひゃくせい)を安んず 己を修めてもって百姓を安んずるは、尭舜(ぎょうしゅん)もなおこれを病めり」   

百姓とは農民のことではなく、人民のこと。尭舜は古代における伝説の聖王。病めりは、心痛するという意味。 

ここからわかることは、君子にもその仁によってランクがあるということ。 まず、基本的な仁というのは、

「己を修めてもって敬す」
 
すなわち、自分が自分であるという自己同一性を確立するということだ。次の仁のステップは、

「己を修めてもって人を安んず」
 
すなわち、自分の自己同一性が確立されたら、それをてこに周りの人たちの自己同一性の確立に手をかしてあげる、ということだ。そして仁の完成形は、

「己を修めてもって百姓を安んずる」 

すなわち、自分の自己同一性をてこに世界の自己同一性を確立する、ということになる。 たしかにこれは難しい。伝説の聖王でも、おいそれと出来ることではないだろう。  

ここを注意深く考えなくてはならない。 

仁そのものの概念は、自分が自分であるという自己同一性の事なのだけれど、個人の独力で仁が達成できるとは、孔子は考えていない。自己同一性の確立を目指す個人が、同じ道を目指す他者と補い合って、自己と社会の自己同一性を高め合った結果、多くの人たちの思いは尭舜に凝固するであろう、ということになる。 

仁という概念は、狭義の仁が互いに高めあって巨大な仁になることをも含めた多層的概念だ。 

この現代世界では、多くの人が苦しんでいると思う。不登校や引きこもり、自殺や犯罪。しかし彼ら彼女らは、なぜ苦しんでいるんだ? 引きこもりは本人の弱さだと言われるけれど、彼らはなぜ弱いんだ? 突き詰めて考えれば、それは自分が自分であるという自己同一性が、ある一定水準以下だからだろう。さらに、自分の自己同一性を高めるための道が、この世界には存在しないからだろう。

この世界は、整合的にあるように見えるのだけれど、本当にそうか? 論語世界より明らかに一段落ちると思う。


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