イケハヤ氏のすごさというのは頭の回転の速さと瞬発力だろう。この力を100%発揮するために、こだわる心というのをギリギリまで排除している。
ブログをやるときは普通、書きたいことを書くという事になりがちなのだけれど、イケハヤ氏の場合は、儲かることを書く、注目されるだろうことを書くという、ある意味吹っ切れたところがある。

結果イケハヤ氏の書く内容というのは、いかに儲けるかの技術となり、文学的政治的内容というものはない。これはこれでかまわないだろう。しかし、顔出ししてあれだけ吹っ切れていたのでは、結果として政治的に危険なのではないかと思う。将来日本が経済的に行き詰った時、ルサンチマンの標的になりやすいし、本当の金持ちというのが、まずイケハヤ氏を盾にして身を隠すだろう、という事が推測される。

イケハヤ氏の主張というのは、お金を儲けるためには合理的なことは何でもしましょう、さらに言えば、お金を儲けるためには合理的なことは何でもしていいんだという事になる。
しかしこの主張は、憲法9条のために合理的なことなら何をしてもいい、民主主義のために合理的なことなら何をしてもいい、という左翼リベラルの主張と構造的には同じだ。

左翼リベラルには歴史の厚みがあるけれど、イケハヤ氏のサロンなるものにはそんな歴史はないだろうから、イケハヤ氏の世界というものは構造的に脆いだろうという事が推測される。


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イケハヤ氏のサロンの人的構成について考えてみる。
だいたい日本の人間構成というのは、10%の頭のいいヤツ、40パーセントのしっかりしたヤツ、40パーセントのだらしないヤツ、10%のチンピラ、というふうになっていると思う。
イケハヤ氏の主張というのは、機敏に継続的に頑張れるものはサラリーマンになるのではなく起業するべきだというもので、彼はそのことを繰り返し丁寧に発信している。その主張自体は非難されるべきものでもない。
しかし実際にイケハヤ氏のオンラインサロンに参加している人たちはどのような人たちなのだろうか。

サラリーマンのなかでも特に優秀な人はほっておいても独自のルートで起業を始めるだろう。仕事がきちっとできる者は、企業内でそれなりに評価されるので、起業のリスクをとる必要がない。そもそも日本の教育システムはきちんとサラリーマンができるかどうかを選別するシステムだから。結局、ちよっとだらしないヤツが、向いていないにもかかわらずサラリーマンとなり、自分を虐げられた社畜と判断し起業と簡単な儲け話にあこがれるということだろう。

頭の中で現実と理想がちょっと乖離してしまった人が、オンラインサロンに惹かれていく。そもそも事務職に向いていない人が事務職をやっていることが問題だ。


これ、サラリーマンがちゃんとできるという人は政治的にリベラルのポジションをとる。サラリーマンをちゃんとできないだろうという人は、共同体というものに愛着を抱くので保守のポジションをとる。しかしオンラインサロンというものに参加しようという人は、メンタルが保守なのに無理してリベラルのポジションを取ろうとしている。
もちろん全員がそうだというわけではない。地域発信のブログのPVを増やすために、そのテクニックをイケハヤ氏に学ぼうというのなら別に何の問題もない。
しかしそのような人は多数派だろうか? 

オンラインサロンというものは保守とリベラルのねじれの上にあって、心を蝕みやすいだろう。

そういやお腹すいた

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magamin1029