男は女性の蜜ツボに興味がある。これは絶対の真理。男は蜜ツボの価値を、その女性の容姿によって価値判断する。価値の序列をつける。あっちの蜜ツボは甘そうだとか、こっちの蜜ツボは臭そうだとか。

失礼千万な話なんだけど、これは下半身の問題でもありコントロールが難しいので、そういうものだと思ってもらうしかない。

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【男としての価値と人間としての価値は別】

一つの男女共学のクラスがあるとして、そのクラスの女性全体に価値の総体というものが付与されるわけだ。女性たちは与えられた価値を男たちに与え返すわけなんだけれども、これはもちろん均等ではなく、女性たちにとって価値ある男と判断された者には厚く、価値のない男と判断された者には薄く配分される。
男と女の間で価値がフィードバックしあうのだけれど、社会的プレッシャー、すなわち女は処女であるべきだとか、女は貞淑であるべきだなどというものがないとするなら、蜜ツボという強力な武器を持っている女性のほうがはるかに優位だ。

現代において、この女性の優位さを証明する数値として、男性の生涯未婚率25%というのがある。
すなわち女性は25%の男性に価値を認めてない。いくらモテない男と言えども人間としての価値はあるわけで、これをどう考えるか。
例えば一軒家に住んでいたとして、その建物部分がどれだけ古くても実際に住んでいる以上は住んでいる人にとっては何らかの価値があるはずだ。ところがその一軒家を売却する場合、上物が築10年以上たっている場合は売値としての価値ゼロだ。実際に住む場合と売る場合において価値が変わってくる。男の価値というのも同じようなものだろう。

男も女っ気なしというわけにもいかないので、女性が男性に求めるだろう価値観に基づいて、価値の獲得競争を始めるようになる。この競争は高校を卒業しても続いていく。

現代において、蜜ツボは女性自身に回収されてしまったのだけれど、歴史的に考えればどうか。

昭和後期においてはまだ男性の生涯未婚率は5%ぐらいだった。この時若い女性の蜜ツボは親に管理されていた。蜜ツボは女性自身の所有ではなく家の所有であって、主に男性親の価値観の序列に従って娘の蜜ツボは家の外部に配分されていた。
当時は女性がフルタイムで働く場所も少なく、女性自身も社会の中で男性に伍して働こうという意欲もあまりなかった。私は30年前、帝国大学の上位校に通っていたのだけれど、同級生で卒業してすぐ専業主婦になった女性を2人知っている。今では考えられないでしょ。何しに東北大学まで来たの?という話になってしまう。

重要なのは、父親の価値観によって若い女性の蜜ツボは外部に配分されていたという事。そして当時の父親における価値の序列とは何かというと、高学歴のサラリーマン家庭で、より上位の中産階級が価値が高いとされていた。もちろんすべての家庭の娘が高学歴のサラリーマンと結婚できるわけではないのだけれど、蜜ツボ分配の権利を握る者が、その配分に対してある一定の理念を掲げたとするなら、社会全体がその価値一色になっちゃうんだよね。価値が一色になったとしてもたいして文句なんて出ない。結果として蜜ツボがあまねく配分されるから。価値観が相対化して25%の男に蜜ツボが配分されない社会と、価値観が一色でも95%の男に蜜ツボが配分される社会とどっちがいい?という話だ。

【リベラルの終焉】

高学歴サラリーマンの中産階級に厚く価値が付与される社会というのは、リベラルの価値が大きくなる。民主主義や平和憲法という理念というのは、これは今でもその傾向があるが、インテリゲンチャのシンボルだ。このシンボルを、これも今でもその傾向があるが、テレビや新聞が煽る。そして煽られた蜜ツボ配分者たる父親たちが、ますます自らの管理する蜜ツボを、よりそれらしき男たちに配分しようと願ったわけだ。
そのような価値の練り上げが崩れてしまった現代において、リベラルの価値というのはどうなっているだろうか? はっきり言って再起不可能でしょう。リベラルは安倍政治をぶっ壊すどころか、ネット右翼に押されるレベルだ。

なぜこのようになってしまったのかというと、繰り返しになるが、蜜ツボがその女性自身に解放されてしまったからだろう。

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