「政治の世界」は丸山眞男の昭和27年の評論。
若き丸山のひかえめながらも熱い思いが伝わってくるような。

巨人丸山を読みながら、リベラルとは何だったのかという事を考えてみたいと思う。

政治とは何かについて丸山は、
「社会的な価値、例えば知識、尊敬、威信、快適、優越、勢力、権力などの獲得、維持、増大をめぐる争いについての解決の概念」
だという。
政治の背後には武力というものがあって、近代において武力は原則として国家しか持たないわけだから、必然的に政治とは国家の内部についての話がメインになる。

丸山はひとつの伝承を語る。
戊辰戦争で板垣退助が会津城を囲んだとき、会津の農民は自分の藩の危急存亡にも全く無関心で、平然と官軍を受け入れていた。人民における政治の不在に危機感を抱かせたこの出来事が、後に板垣を自由民権運動に投じさせた動機になったという。

この話を丸山は肯定的にとらえている。すなわち丸山は、出来るだけ多くの国民が、国家内において価値をめぐる争いに参加するべきだと考えているわけだ。社会的な価値の内訳に「知識」をあげたけれども、何の知識でもいいというわけではない。とにかく尊敬されるような知識でなくてはならない。そして尊敬されるべき知識は学校教育で教えられる。
すなわち学校教育というものは、出来るだけ多くの国民に国家的価値競争に参加してもらうための一つの機構ということになる。そして何が価値のある知識であるかという判定は、明治憲法下においては最高権威の天皇にどれだけ近いかということで決定される。

これは当たり前のシステムではない。人々は今まで平和に暮らしていたのに、急になじみのない価値観を押し付けられて、この価値観をめぐって互いに競争しろって言われるわけだから。しかしこのシステムを支えた根拠は、一体性を強化しなければ日本は滅びてしまうだろうという国民共通の危機感だった。

時は流れて昭和27年。
丸山は今の日本には政治が必要だという。具体的にはこのように言う。

「民主主義が現実に民衆の積極的な自発性と活発な関与によって担われるためには、どうしても国民の生活条件自体が社会的に保証され手から口への生活にもっとゆとりが出来るということが根本だということにならざるをえません」

実に巧妙に原因と結果を転倒させている。
板垣退助は日本独立のために自由民権運動が必要だと言ったわけだ。これと同じ論理で言えば、丸山は国民が豊になるために民主主義が必要だと言わなければならないはずなのに、ここでは民主主義のために国民が豊かにならなくてはならないと語ってしまっている。
正しくは、日本が豊かになるためには日本はその一体性を維持しなくてはならないから、戦前までは価値の序列システムの中心に天皇を置いていたけれども、これからは天皇の代わりに民主主義とそれに付随する観念を据えなくてはならない、と言わなければならない。

日本が経済的に成長していた時代には、丸山的虚構は虚構であっても問題はなかった。しかし成長しなくなってしまうと、多くの国民にとって普遍的価値の序列システムに参加する意欲というのは薄れてしまうだろう。リベラルがその正義を声高に主張しても、積極的に支持されるという事にはならなくなる。リベラルはそもそもの根拠が怪しいので、あまり声高に正義を主張すると藪蛇みたいなことになりかねない状況だと思う。


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