magaminの雑記ブログ

1930年、映画化もされています。

「西部戦線異状なし」は、第一次世界大戦時ドイツのフランス戦線すなわち西部戦線で戦ったある若者の話です。

第一次世界大戦はそれまでの戦争とは全く異なる戦争でした。将軍が馬上で軽やかに全軍の指揮を執るなんていうものではなく、最前線では互いに塹壕を掘りあって対峙し、自国の全ての力を塹壕戦争に注ぎ込むところのものです。いうなれば総力戦です。

総力戦思想が発動する前と後では世界が異なって立ち現れます。総力戦以前の世界では、貴族と平民などという身分の差なんていうものが存在する余地がありえましたが、総力戦以後の世界では一国内における身分の差などというものは許されなくなってきます。国が抱える全ての潜在力を顕現させるというのが総力戦の思想ですから。

「西部戦線異状なし」の主人公は今で言う大学生です。主人公の戦友というは、カチンスキーという40歳の労働者です。大学生と肉体労働者という平時では決して出会う事のなかった二人が、第一次世界大戦という強力な圧縮装置によって出会い、戦友という何よりも強い人間の絆で結び付けられます。総力戦という合理化は学歴や偏見などという人間の精神現象を簡単に押し流してしまうのです。

わたしが思うのは、第一次世界大戦や第二次世界大戦の総力戦、すなわち合理化の上に21世紀の今があると思うのです。

まあ例えば、来る東京オリンピックのロゴ問題について考えてみましょう。なんとかっていうデザイナーのデザインが東京オリンピックのシンボルマークに決まっていたのにそれが撤回されたのでしょう。
ここで問題なのは、このデザイナーのデザインがパクリかパクリでないかということではなく、有名とされるデザイナー達がコネの力によって美味しい賞をたらいまわしにしていたということではないでしょうか。多くの日本人が東京オリンピックデザイン問題にあきれ果てているのは、一般の日本人の多くが経済の総力戦という合理的世界の中で生活しているにもかかわらず、上流デザイナー世界には非現代的な貴族世界が存在していたということにこそあると思います。

合理化を求める人間の叫びがあの世界大戦だったとするなら、戦争反対なんていう言葉がどれほどの意味があるのか。二度にわたる総力戦の、その延長線上に今のわたし達が存在するということをわたし達は自覚した方がいいと思います。







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