儒教や朱子学が東アジアを停滞させていた原因であり、現代日本は朱子学などというものとは関係ない、とするのはアカデミズムではマイナーなのですが、一般的にはメジャーだと思います。このような西洋近代至上主義的な思考パターンをウェーバー主義というのですが、このウェーバー主義が根拠薄弱であるという事を説明したいと思います。

朱子学とはどのようなものであるのかというと、
まず人間個々人には、天から「理」というものが付与されていると考えます。これは革命的な考え方であって、人には「理」という価値あるものが与えられているわけですから、最低限の基本的人権というのは誰にでもあるという事になります。このような思想を人々が共有すれば、広大な土地と多数の人民からなる社会をローコストで維持できるようになります。このような社会が宋以降の中国です。

朱子学的世界では、「理」の多寡によって人々が秩序付けられます。国家的試験、すなわち科挙によって「理」の多寡は判定されて、人々は階層的社会に組み込まれていきます。さらに職業集団というものも、「理」の多寡によって、その社会の中で序列化されます。
このような朱子学的世界では、多くの集団があるべき「理」を声高に主張するようになるでしょう。「理」は普遍的な価値、誰もが持つ当たり前の価値であると考えられているはずですから、「理」を体現していると考える人は、自らの「理」を主張し、この「理」にそった論理展開を否定する人を馬鹿だと思うでしょう。宗教の一歩手前という感じです。この一歩手前感が大事なのですが。

問題はこの「理」とは具体的に何かという事です。この「理」の内実というのは時代によって変わるのですが、例えば「理」を「民主的な節度と倫理観と寛容さ」と考えると、これは現代日本の左翼リベラルの主張と重なります。これは主張が重なっているだけではなく、こういうと申し訳ないのですが、左翼リベラルの押しつけがましいところが、朱子学的世界の構造と同じなのです。
話は循環しまして、西洋近代の代弁者であるかのような左翼リベラルでさえ、その論理構造は朱子学に依存しているという考えもあり得るわけです。

いつから日本が朱子学的世界になったのかというと、これが明治維新以降という事になります。




magamin1029