保守は右でリベラルは左と言われていますが、いったい何を基軸に右とか左とか言っているのでしょうか?

近代というのは精神と物質の二元論の世界でありまして、簡単に言いますと、論理と欲求というものを明確に分けて考える世界観ということになります。
保守とは、人間の自由な論理的思考を伝統などで縛る代わりに、欲求というものについてはある程度の自由を認めましょうという立場であり、
リベラルとは、論理的思考は自由にする代わりに、欲求というものを社会的に縛っていきましょうという立場です。
リベラルは社会的に欲求を縛るわけですから、経済的弱者を救うような高福祉政策というのが売りみたいになります。

国家と個人というのはシンクロしていまして、自分が保守的生活を送るものは国家に保守的政策を求めるし、自分がリベラルであると自認するものは国家にリベラル的政策を期待します。
ここまでは分かりやすい話です。

しかし問題なのは、リベラルというものが無条件に成立するものであるか、ということです。
論理的に自由な人間は、本当に自分の欲求を制御することができるでしょうか? 
論理的思考のできない人は、ある意味論理的思考から解放されています。このような人は社会の底辺に沈んで、もらった給料をもらっただけ使いがちです。論理的思考から解放されているからと言って、欲求を制御するなんてことは出来ていないです。
事実はリベラル論理と逆であって、論理的思考ができない人は、自分の欲求を制御できなくなりがちなのです。
当たり前の話です。

リベラル思想というのは矛盾しているのです。精神的な解放は欲求の解放と直結します。リベラルは反論すると思いますよ。自分は精神的に解放されているが、欲求はきちんと制御していると。

私は、本当に左翼リベラルを自称する人は精神的に解放されているのですか、と問いたいです。解放されているつもりでも、本当は何かに縛られているのではないですか。
何に縛られているのか? 
例えばリベラルを呼号する新聞、テレビは、コメンテーターとしてどこどこ大学の教授だとか権威を借りてきています。精神的に解放されているなら権威に寄り掛かる必要はありません。話される内容のみを精査すればいいのです。
左翼リベラルを自称する人たちは、インテリを気取っていないでしょうか? 肩書がですよ、精神科医だったりライターだったり芸術家だったりしていないでしょうか。精神的に解放されているなら、趣味のレベルであるだろうものを職業などと語ったりしないでしょう。

日本がゆたかであった時代は自称リベラルが許されるということもあったと思いますが、ここまで日本経済がシュリンクすると自称リベラルなどというものは許されないでしょう。



magamin1029