「孟子」の性善説の解説です。

性善説とは、人間の性質はもともと善である、などというおめでたいような思想ではありません。性善を信じれば社会が強くなり、その強い社会で生きている人は性善を信じなくてはならない、という、一種逆説的な思想です。それなくして生きることのできない思想を人間は「真理」と呼びます。

「孟子」は儒教の経典になっているので、葬式のしきたりだとか長幼の序だとかをくどくど書いているのではないかと思われるかもしれないですが、全然そんなものではないです。

では具体的に何が書かれているのかと言いますと、例えば孟子はこのように言います。

「我よく我が浩然の気を養う」

弟子がですね、先生、浩然の気とは何ですか? とすかさず問います。結論から言いますと、浩然の気とはやる気とか元気とかそのようなものです。
ではどうすれば「やる気」を自分の中で養うことができるのか? この難しい問題を孟子は真正面から答えようとします。

私は思うのですが、個人的社会的な問題の多くは「元気」の払底から起こっているのではないでしょうか。不登校、引きこもり、ニート。さらに、現状の保守と左翼リベラルのギスギスした対立というのは、突き詰めれば、保守の秩序主義と左翼リベラルの自由主義との社会的な限られた「元気」の奪い合いに原因があると思います。

元気を盛り上げようとする時にやってはいけないことを、孟子はこのように言います。

「気を正とすることなかれ。助けて長ぜしむることなかれ」

これは「元気」そのものを直接盛り上げようとしてはいけないという意味で、孟子は以下のような例えをあげています。私の現代語訳で。

「宋人ごとくすることなかれ。宋国のある人が、苗がなかなか大きくならないことを心配して、苗を引っ張って伸ばそうとした。その人は家に帰って息子に語った。
 今日は疲れた。苗を引っ張って伸ばしてきた
息子がびっくりして田に行ってみたら、苗はすべて枯れていた」

元気を直接盛り上げることは出来ないというのは、なんとなく実感できます。やったとしてもカラ元気みたいなことになります。
では元気を滋養するにはどうすればいいのか。これは難しい問題で、現代において明確な答えは存在しないことになっています。ですから、元気の総量は個人個人に前もって与えられていて、出来るだけ元気を節約して生きるのが賢い生き方だとされがちです。現代社会でお金とか周りからの承認とかが重要視されるのも、元気の消費を節約しようとすることの結果だと思います。

では元気を盛り上げるにはどうすればいいのか?
孟子は、この現代において誰も答えることができなくなった問題に真正面から切り込みます。
これが哲学ではなくて何でありましょうか? 真の哲学ここにありです。東洋に哲学がないなどと奇怪な知識人が語ったりするのですが、ふざけきった馬鹿を言うものありです。

ハードルもいい感じに高くなってきたようなので、元気を醸成する方法にいての孟子の論理を紹介したいと思います。

「その気たるや、義と道とに配す。これなければ飢うるなり」
「故に告子は未だかつて義を知らずと言えるは、そのこれを外にせるをもってなり」

やる気は「義」に伴って発生するもので、「義」というものは心の内にあるからこそ意味がある、ということになるでしょうか。
「義」とは何かということはまず置いといて、何らかの根拠というものが心の内にないと「やる気」というものは本当には発生しないのだと孟子は言うわけです。
それはそうでしょうね。
やりたくないことばかりやっていたら、生きることが馬鹿馬鹿しくもなるでしょう。しかし、やりたいことばかりやって生きていくというわけにもいかないですし、この辺の折り合いをどうすればいいのでしょうか? 
野球好きなら野球が「義」となるでしょうし、本好きなら読書が「義」となるでしょう。ないよりはましですが、この程度の「義」だと生活との折り合いということにどうしてもなってしまいます。

ここから論理の跳躍になるのですが、「孟子」には推奨されるべき「義」というのが書かれています。それが何かと言いますと、

性善

ということになります。性善とは、すべての人に天から善の心が付与されている、という思想です。性善思想を心の中心に置くべきだと孟子は言うわけです。
性善と言われて、ちょっと待てと、すべての人に善の心があるというのは無理なんじゃないの、性善なんて考え方は甘いんじゃないの、と誰もが考えます。サイコパスなんていう言葉もあります。
孟子の弟子も、その辺のところを問いただします。先生、善の心を持ってなさそうな人もいるんですけど、その辺はどうなのでしょう? みたいな感じです。
孟子、答えて曰く、ですね

「かの牛山を見よ」

牛山というのは、中国戦国時代最大の都市である臨淄(りんし)の近郊にあった山の名称です。

「かの牛山をみよ。(以下私の現代語訳です) あの山はかつて木に覆われ美しかった。だが薪として、木は切られてしまった。だが山はまだ生きていて、雨や露の潤すところ、切られた切り株にも緑がたちこめた。
ところが人々は牛や羊を放牧する。やわらかい緑もすべて食べられてしまった。
長い月日がたち、何もなくなった山を見て、人々は、この山ははじめから何もなかったと思うようになる。しかしこの今の牛山は、本当にあるべき牛山の姿なのだろうか? 人間の心も、この牛山と同じなのではないだろうか? 人が良心を無くしてしまう理由も、日々において牛山の木が失われてしまったことと同じなのではないだろうか? 日ごとに木を切ったのでは、その美しさを保つことはできない。あの夜明けの緑の芽生えも、良心を失った人が多いことを思うなら、昼間にそれを牛や羊に食べられてしまったのだろう。このようなことを繰り返せば、緑の芽生えも失われる。緑の芽生えが失われれば、人は禽獣と変わらなくなるだろう。人が禽獣であるさまを見て、その人は善であったことはないとして、そのことで本当に人の性善を否定したことになるのだろうか。正しく育てれば成長しないものはないが、育てるのをやめればそれは消えてしまう。
孔子が、「取ればあり、捨てれば失う、出入り時なく、あるところを知らない」と言ったのも、このような意味ではないのか?」

性善を心の中心に置けば、人を信用してフレンドリーにもなれます。どうしようもない人がいたとしても、それは心の善が厚く覆われてしまっているだけであって、腹も立たない、スルーですよ。そのような難しい人を救うのは一般人ではなく、堯舜(ぎょうしゅん)のような聖人の仕事ですし。
このような思考パターンに移行していければ、やる気を滋養するということは不可能ではないと私は思います。
孟子は、この性善思想をあらゆる社会レベルにはめこもうとします。世界、国家、村、家族、個人、などのすべての社会レベルで性善の歯車が回り出せば、元気というのが天地に満ちるようになり、これが「浩然の気」ということになるでしょう。

だから有用な性善思想を復活させるべきだなどと、私は思ったりしないです。
論理は逆です。
「孟子」が存在したから東アジアの世界はこのように膨らんであるわけで、「孟子」が存在したから東アジアは19世紀のウエスタンインパクトを辛うじてではありますが、跳ね返すことができたのではないでしょうか。
ですから、「孟子」とは近代西洋哲学のような世界を説明する哲学ではなく、世界に命令する哲学です。一段高い哲学です。真の哲学とはそのようなものだと思います。

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