ジルドゥルーズによるニーチェの入門書。ジルドゥルーズはニーチェを説明しきれてないと思う。そのあたりのところをくわしく。

ただニーチェを解説しながら、何だか微妙にニーチェが分かりにくくなっている。ドゥルーズはニーチェを限定しすぎなんだと思う。
例えばドゥルーズはこのように言う。

「哲学は能動的な生と肯定的な思想との統一の代わりに、思想は生を裁くこと、いわゆるより高い価値を生に対立させることを自らの任務として定めるのである」

ニーチェ思想を無理に敷衍して、現代社会における自由意志のエネルギーの衰退を嘆いているような論調だと思う。現代の自由主義社会において、自由意志の旗を高く掲げようというのは悪いことではないとは思うけれども、そのことにニーチェを使うというのはニーチェ思想の限定であり、ちょっと危険だと思う。

そもそも自由意志とは何か?

右手を上げようと発意して右手を上げたとする。これを素晴らしい自由意志の発現と考えるなら、私たちの意識の中枢に「意思」というコアがあって、その意思が右手を動かしたということになる。さらに言えば、「意思」が脳内細胞の特定のシナプスを発火させ、その結果右手が持ち上がったということになる。
「意思」が脳内細胞の特定のシナプスを発火させる?
これではサイコキネシスになってしまう。ありえない。サイコキネシスは存在しない。
近年の研究によると、自由意志が自覚される0.何秒か前に脳内シナプスの発火が認められるという。脳内シナプス発火がある程度自覚できる状況になって初めて、その自覚が自由意志として認識されるというだけだろう。すなわち私たちが普通自由意志だと感じているものは、自由意志というものではなく単なる事後認識みたいなものだと考えるのが合理的判断だろう。

こう考えると、ドゥルーズの「能動的な生と肯定的な思想との統一」というところの「能動的な生」とは、人間情動の事後認識みたいなものになる。
さらに、ドゥルーズの言う「生を裁く思想」とは何か?

自由意志の自覚から実際に行動が起されるまで0.何秒かあるのだけれど、この0.何秒の間のどこかの時点に行動を抑制することができなくなるポイントオブノーリターンの時点が存在する。
逆に言えば、自由意志の自覚から行動抑制のポイントオブノーリターンの時点までは行動抑制が可能だということだ。この行動抑制の判断というのは何によってなされるのかというと、彼我の強弱だとか社会的通念などの価値判断だ。

お腹がすいているからといって、大人はコンビニの商品棚にあるパンをその場でむしゃむしゃ食べたりしない。なぜなら価値判断によって行動抑制の判断をしているからだ。これがドゥルーズの言う「生を裁く思想」ということになるだろう。

結局どういうことになるかというと、ドゥルーズが否定的に語った
「思想が生を裁きより高い価値を生に対立させることを、哲学が自らの任務として定め」て別に何の問題もないということだ。
価値判断という思想が能動的な生と統一されたりしたら情動駄々洩れであって、たぶん人格障害のレベルになってくると思う。

ニーチェは狂気の中で狂気の哲学を展開したわけであって、それはそれで強力なものがあるのだけれど、狂気の哲学をエスタブリッシュメントの教養として限定し取り入れるというのは無理があると思う。

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