ねじまき鳥クロニクルの主人公「僕」は、近所の空き家の庭にある涸れた井戸に縄梯子を下ろして、井戸の底で井戸ライフを送り出す。二日間ぐらいの井戸ライフだったけれども、ページ数にすれば130ページぐらいになる。

「ねじまき鳥」はここまでとにかく井戸押し。第2部に入り、主人公はついに井戸の底にまで降り立った。
井戸といっても普通の涸れた井戸だから取り立てて何もない。井戸の底でファンタジーの扉が開くとか、そういうのはない。普通の井戸。
井戸という観念に何か意味があるのではないか? 大袈裟に言うと、井戸はメタファーであるというということになる。
村上春樹が導こうとする井戸メタファー世界観というのは、私が推測するに、

私たちは井戸の外の世界で当たり前に生活していると思っているけれど、真の世界は実は広大であって、人間は日々生活するにあたりそれぞれの心に井戸を掘り、その底で自分の世界を守りながら生きているのではないだろうか。そして現実に井戸に潜ることで、人間の真の井戸性というものが明らかになるだろう。人間の孤独、共感性、運命などが、より明確になるだろう。

というようなものだと思う。

しかしそもそも何故井戸なのか?
「ノルウェイの森」の冒頭でヒロインの直子が主人公の「僕」に向かって、この森のどこかにすごく深い井戸があるのよ、みたいなことを語っていた。この直子というのはちょっと精神の不安定な女性で、この深い井戸のくだりも、直子が京都北部の精神療養所に収容されている時に、そこを訪れた「僕」に対して直子が語ったところの話だ。
深い井戸とは、精神の不安定な女の子が自殺する前に「僕」に語った無駄話の中に出てくる単語に過ぎない、という考え方も出来る。
村上春樹は井戸に拘る。ここで奇怪なことは、井戸とはそもそも村上春樹が作ったフィクションにでてくる単語に過ぎなかった、ということだ。井戸にこだわるということは、「ノルウェイの森」の直子にこだわるということで、しかし直子とは、村上春樹が書いたフィクションにおける登場人物の1人に過ぎない。井戸に価値を付与して、井戸をメタファーとしての造形したとしても、トータルとしての奇怪さというのは隠せないと思う。

「僕」は井戸の底で夢を見る。
その夢の中で、「僕」の妻の兄がこのように語る。

「愚かな人は世界のありようを何ひとつ理解できないまま、暗闇の中でうろうろと出口を捜し求めながら死んでいきます。彼らはちょうど深い森の奥や、深い井戸の底で途方にくれているようなものです。彼らの頭の中にあるのはただのがらくたか石ころのようなもので、だから彼らはその暗闇の中から抜け出すことが出来ないのです」

彼は全く明らかに「ノルウェイの森」の世界観に喧嘩を売っている。「ねじまき鳥クロニクル 第3部」は、主人公「僕」のこの義兄に対する反撃をメインに展開するのではないかと予想する。
どっちも頑張れって思う。

「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」 に続きます。


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