この小説は重め。
私は、週末1円パチンコをやりながら小説を読むというパターンなのだけれど、高村薫の「照柿」はパチンコ屋で読むというのはちょっときつかった。

文庫本の解説に
「高村薫は現代日本のドストエフスキーである」
とあるけれど、読み終わってあながち間違っていないとは思う。

「照柿」のメインパートの主人公は、35歳工場勤務の野田達夫。野田の世界は臙脂(えんじ)色に満ちている。例えばこんな感じ。

「達夫は、暮れかけた夕焼けのどす黒いまだらと、その中に残る炉心のような臙脂色を眺め、そうだ、自分が郷里で目に焼き付けたのはせいぜいあの照柿色ぐらいだと冷静に思い直した。絞れば濃厚なしずくが滴るようなその色は、同時に一寸No4の浸炭炉の懸案を呼び起こし、さらには達夫の頭の芯に乗り移って頭痛をも呼び覚ましながら、しばし燃え続けた」

野田の思考は、いつも臙脂色の世界に溶けてしまう。色というのは説明はできない。野田の世界も説明はできない。意味や説明以前に情緒や気分の世界があるとするなら、野田はそんな世界の住人だ。臙脂色にとらわれている。
近代小説というのは、整合性とその根拠を必要とし、個人が意味を告白しながら話が展開していく表現形式だとするなら、この「照柿」はそのような枠組みから少し外れるだろう。臙脂色の世界がまず与えられていて、野田という人間はその世界から発生したなにか人格的なものにすぎない。この辺は確かにドストエフスキー的ではある。

野田の世界は臙脂色である。臙脂色という説明不能の世界が野田を捕らえている。野田にとって青が敵対的な色となる。
野田の父親というのは、放蕩三昧の全く売れない画家だった。父親は青色を使った抽象的な絵ばかりを描いていて、野田は父親が憎いのか青が憎いのか分からなくなってくる。
野田が子供のころ、友だとの飼っていたカラスの雛を絵の具の青で塗って、雛が死んでしまう。友達は、「絶交だ、君みたいな人間は未来の人殺しだ」 という走り書きの紙をよこす。野田はこの紙片を20何年も仕舞いこんでいた。
野田は、深夜に父親の知り合いだった画商を訪ねる。エミール・ガレの赤いガラススタンドが部屋全体を真っ赤に染めている。画商が父親の昔話をしながらハンカチを出して汗を拭く。青いハンカチが突然現れ上下に動いた後再び消えていく。
この場で野田は画商を殺す。
なぜ殺したのか理由とかはなく、赤と青の相克としか言いようがない。

この小説がドストエフスキーレベルで成功しているとは言えないけれども、その方向性とチャレンジ精神というのはすばらしいものがあると思った。