精神史とは雰囲気史みたいなもので、明治精神史というと明治の雰囲気史ということになるだろう。

明治雰囲気史で欠かせない人物といえば北村透谷だろう。しかし北村透谷を直接扱うというのは難しい。なんせ25歳で自殺した天才思想家だから。まず透谷の周辺から攻めていこうという。
北村透谷の妻を石坂ミナという。この女性の兄に石坂公歴(まさつぐ)という人物がいる。北村透谷と石坂公歴は同じ明治元年生まれだった。もちろん親交があった。二人で旅行などもしている。

北村透谷は没落士族の息子、石坂公歴は三多摩地方の豪農の息子だった。
石坂公歴17歳の時に書かれた彼の人生の予定表みたいなものが残されている。例えば、

「二年間政治学の実際上と学問上とを比較し、社会の動静を視察し、自己の主張せる大主義を論述し、これを印行して広く社会に問う」

などというものだ。上昇志向の強いできる男という印象だ。しかし東京帝国大学を二度受けるのだけれど失敗。 明治10年代は自由民権運動の時代なんだけれども、最後は自由党左派が矯激化して大阪事件などを起こして自滅する。石坂公歴(まさつぐ)は、この大阪事件に巻き込まれてアメリカに逃亡する。
石坂公歴なる人物は非常に立身出世欲が強い。色川大吉は、これは彼が豪農層出身だからではないかと推測している。これに対して北村透谷は立身に対して淡白だ。これは彼が士族層出身だからではないかという。

これは豪農層が貪欲だったというわけではない。歴史的に豪農とは、士族に対する窓口になりながら村をまとめるという二面的な役割を担っていた。しかし明治維新によって、豪農は多くの義務から解放された。自由ではあるけれど難しい立場でもある。新しい時代だと飛び出してはみたものの、結局豪農は維新政府の指導に従い村を統制するという昔と同じ場所に戻りがちだったんだろう。
石坂公歴はちょっと飛び出しすぎた。

石坂公歴は、短命だった北村透谷とは異なり、アメリカを放浪しながらなんと昭和18年まで生きた。昭和13年、彼は自分の妹、すなわち北村透谷の妻にあてたアメリカからの手紙の最後にこのように書いた。

「我が国の外交は今日現時に至りて始めて自主的外交となり、真に一大国の姿を確保することとなり、我が国民は衷心の快とするところ、維新以来の大国これを現実し来たりて歓喜雀躍を禁ずるあたわず」

本当に、豪農の魂百までだね。

北村透谷の親友に大矢正夫という人物がいる。大矢正夫は実際に大阪事件に参加して捕まり懲役6年を食らっている。
大阪事件の説明を簡単にすると、明治18年、自由民権運動末期に自由党左派が朝鮮の政変に介入する資金のために各地で強盗を行ったというもの。普通に考えればろくでもない事件だ。
北村透谷は大矢正夫に大阪事件への参加を懇願されたがギリギリのところで拒否している。

大矢正夫は釈放後大陸浪人となり、明治28年 閔妃(びんひ)暗殺事件に関与している。
閔妃暗殺事件とは、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が、宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮志らに暗殺された事件だ。事件の背景というのはあったのだろうけれど、これも現代の感覚からすればちょっと考えられないレベルの事件だ。

明治18年に大阪事件に参加してアンチ権力という硬骨を示したはずの大矢正夫は、10年後には政府の走狗になっているという。
彼の気持ちも分からなくはない。立身への渇望があって、それがあるときには反権力であり、またあるときには権力への同化となるのだろう。彼の渇望は時代によって与えられたという面もあるだろう。

石坂公歴(まさつぐ)や大矢正夫に象徴されるような立身出世と国権主義、北村透谷に代表されるような細民土着と理想主義。明治10年代の自由民権運動時代に存在したこれら思想の流れは、時代が変わっても伏流していたと思う。昭和に入り「国家の総力戦体制」という枠組みが与えられて、その伏流は、三月事件、十月事件、五一五事件、二二六事件となって時代の眼前に現れたのだろう。