統合失調症。
統合が失調してしまうのだから大変だ。しかし、何の統合がどのように失調するのだろうか。

近代世界は個人の人格の一体性を前提として社会が構成されている。
プラトンは「正義とは何か」という問に「それは一体性」であると答えた。個人の正義は個人の一体性に、国家の正義は国家の一体性にある、とした。西洋近代は明らかにこのプラトンの思想を受け継いでいる。

この一体性という考えも微妙で、そもそも人間の人格におけるおける一体性とは何なのかというのはある。「統合失調症あるいは精神分裂病 精神医学の虚実」第8回講義では、自我というものを主体と自己に分けて考えている。主体というのは「今ある自分」で、自己というのは「あるべき自分」という程度の意味だと思う。

「今ある自分」と「あるべき自分」が分裂するというのは異常でもなんでもない、よくあることだ。例えば葬式とかに行って神妙な顔をして座っていたとする。葬式なんてクソくだらないなんて「本当の自分」は思っていたりするけれども、それを表現するわけにもいかない。「あるべき自分」を演じながらもだんだんと役になりきってしまって、葬式なんてクソくだらないと悪態ついていた「本当の自分」はろくでもないな、などと主体性の座が移ったりする。

自分の中の主体と自己が、まあなんと言うか、社会の中でよろしくやっていくために互いに互いを高めていってくれればそれはそれでいい、何の問題もない。
「あるべき自分」と「今ある自分」との差が大きくなってくると問題が起こってくる。「あるべき自分」になりきれない「今ある自分」は恥ずかしいみたいなことになるだろう。自我の分裂ではあるが、まあまあここまでは許容範囲だろう。

ところが「あるべき自分」に意識の主座が移ってくるとちょっとヤバイ。ダメな自分、嫌な過去を意識の向こう側に放逐するようになる。こうなると個人の感情の循環がうまく回らなくなってくる。
本文にこのようにある。

「私の見解では、衝動的なもの-欲望-情動―感情-情緒-気分-言論、このくらいの順番で、資源的で原始的なエネルギーからソフィスティケートされたものに変遍、発達すると考えています」

これはあるなって思う。人間の精神というのは階層構造になっていて、最下部から発生したエネルギーを消費、精製しながら上部の機構に受け渡していくシステムだ、というわけだ。このシステムがうまく循環していかないと問題が起こったりするわけだ。

思っていることをうまく言葉で表現できないとちょっともやもやする。これは、気分-言論の関係性がうまくいっていないからだろう。これはよくあることでたいした問題ではない。しかしもっと階層構造下部で不具合が発生するとどうだろうか?
最下部から発生したエネルギーを消化できずにシステムごと ドカーン ということもあるだろう。

統合失調症という病気は、まず幻聴や幻視を伴う「急性期」と呼ばれる時期を経て、活動低下や無表情を伴う陰性症状に移行するのがメジャーだという。したがって、人間精神の階層構造のかなり下部のほうの不調なのではないだろうか。
意思や意識というものは、精神構造の深いところまでは届かない。だから統合失調症は不思議な病気と判断されて一般に理解されにくいというのはあるだろう。

しかしなー、統合失調症に対しての理解の難しさというのは、本当にしょうがないものなのだろうか。私たちは無条件に何らかの前提を受け入れて、統合失調症を簡単に判断してしまっているということはないだろうか。

現代社会においては、自由意志とか意識というものが過大に評価されているだろう。腕を曲げようと思って自由意志を発動したら腕が曲がったと。自由意志によってまさに今腕を曲げたと。この行動現象は完全無欠の真理であると。
本当に?
リベの論文によると、意思を持っての行動の場合、実際の行動の0.2秒前に意思の自覚を示す脳内シナプスの発火が認められる。ここまではいいのだけれど、さらにその0.3秒前に意思の自覚に向けた脳内シナプスの発火が認められるという。意思の発動の前に何らかの準備段階があるらしい。
意思というのは自由意志ではなく不自由意志だということになる。だってそうでしょう? 意思の発現の前に0.3秒も何らかの助走がある。意思は行動の始原ではない。
でもこれはよく考えたら当たり前だよね。意思によってシナプスが発火するんだったら、そこに サイコキネシスがあるということになってしまう。それはない。サイコキネシスはない。

あらゆる意思には必ず何らかの準備がなされている。この準備がなければ意思は発動できない。準備が不十分だと意思の発動の結果も満足できるものではないだろう。さらに言えば、この意思世界における世界感覚というものは、何らかの生態的システムによって用意されていることになる。この意識以前の生態的世界形成システムの不具合が統合失調症だろう。

後一つ、精神病者の犯罪に対する刑罰が軽減されることについて。
シナプスの発火-意思の発現-意思の実行、という流れの中で、実行拒否の能力発現というのはどこにあるのかというと、意思の発現-意思の実行の0.2秒の間にある。意思の発現以前の領域における病気が統合失調症なんだから、統合失調症患者にも平均的な犯罪実行拒否の能力はあるだろう。この犯罪実行拒否の能力こそが責任能力ということではないだろうか。ならば精神病者の犯罪に対する刑罰は軽減されるべきではないということになる。
まあでもそのためには、この社会における自由意志と意識存在にたいする過剰な価値の付与を転換する必要がある。自由意志の重視と刑法39条「心神喪失」犯罪は強力にリンクしている。

そして、統合失調症とは何の統合がどのように失調するのかについて。
本書の最後にこのようにある。

「ヒトにとっての現実とは、運動行為を脳内で準備する時に発生する「世界の絵」である。その準備活動に従事する責任部位は大脳皮質前頭前野の四六野を中心とする部位で、準備計画作成のために、この部位が脳内の他部位を強力に統制して、世界の意味づけやそこで行おうとしている行動の持つ意味などの重要な情報をメモリーから調達する。
行動計画を作成する機能が統合機能であり、これが不適切だったりバラバラであったりすると、合理的行動はできなくなる。その統合不全状態を特徴とする病気という意味では精神分裂病を統合失調症と呼ぶことに、大きな誤りはない」

なるほど。