福沢は「文明論之概略」の中で英雄史観というものを完全に拒否している。時代の変化というのは一人の天才によって起こされるものではなく、変化の胎動は時の中に伏流していて、ある閾値を越えると時代の変動として眼前に現れるという。歴史上の人物とは時代の変化の象徴に過ぎないという。

骨太の論理だと思う。
私たちはつい簡単に考えてしまう。あの時ああすれば今より幸せだったのか? みたいに。可能性を限定して考えることは楽なんだよね。同様に、歴史の変化を天才個人に還元できれば楽ちんだ。明治維新は坂本竜馬とか、江戸幕府は徳川家康とか、帝政ローマはカエサルとか、後漢帝国は光武帝とか、いくらでも還元できる。陰謀史観もこの延長上にある。太平洋戦争はルーズベルトの陰謀だとか、独ソ戦はスターリンの陰謀だとか。

福沢諭吉はこのような単純な歴史観を拒否する。歴史の変化とは個人の能力で起こるものではなく人間精神の集合の流れとしての「時勢」によるという。
時勢などというあいまいなもので歴史観を形成しようという。石原莞爾の「最終戦総論」には同様な認識があった。しかし「文明論の概略」は明治一桁年の構想だから、まさに天才福沢の真骨頂だ。

時勢により明治維新が起こった。新生日本は文明の海に漕ぎ出した。福沢は文明の進歩において大事なのは「自由の気風」だという。
福沢の言う自由とは例えば、日本は中国より自由が多かった、なぜなら中国は皇帝という一つの権力で日本は天皇と幕府という二つの権力があって、日本は一つの権力に惑溺することがなかったからというものだ。すなわち「自由の気風」の自由とは、心の余裕フレキシビリティーみたいなものだ。

私が思うのは、福沢の言説の根幹というのは惑溺を拒否するところの彼の「心の余裕」にあるということ。福沢の心の余裕とはいったい何に起因しているのだろうか?

福沢の有名な言葉に、

一身(いっしん)にして二生(にせい)を経(ふ)るが如く、 一人(いちにん)にして両身(りようしん)あるが如し。

というのがある。簡単に言うと、私は二つの世界を生きたみたいだ、となる。
人間は普通一つの世界しか生きない。一つの世界には同じ雰囲気同じ匂いが継続している。一つの世界にしか生きない者は同じ雰囲気しか知らないわけで、なかなか別の世界の雰囲気まで体感することはできない。
太平洋戦争が何故起こったのか不思議に思ったことはないだろうか? 太平洋戦争の原因が現代人によく理解できないのは、私たちが戦前の雰囲気をリアルに体感できなくなっているからだ。私たちは現代という時代の雰囲気の中に閉じ込められている。心が閉じ込められている人間は、その枠内でしか心のフレキシビリティーを発揮することはできない。

雰囲気というものは、じつは人間に強力な力を及ぼしている。自分の家族が同一人物の家族であると認識できるのは、合理的推論の結果などというものではなく同じ「雰囲気」が継続しているからだ。雰囲気を持つことができず、親しいはずの人に親近感を持つことができないという精神病もある。

時代の雰囲気というのも同じで、それは激しく私たちをこの世界に限定している。ところが福沢は江戸と明治の二つの時代を生きて二つの時代の雰囲気を知っている。これが「一身にして二生を経るが如し」の意味だろう。このような人は心の自由度というのが拡大して、能力以上の事を成し遂げたりする。

そんなことを言ったら福沢と同じ年代の日本人はすべからく能力以上の事をやらかしたということになるのではないかという意見もあるだろう。
実はその通り。
明治維新で20代だった人たちは、時代に「自由の気風」を付与されて日本を持ち上げる役割を担った。同じことが太平洋戦争で20代だった人たちにも当てはまると思う。思い出せる人は、団塊の世代の親たちを思い出してあげたらいい。

福沢の思想の力の源泉というのは、時代を相対化できるほどの彼固有の「心の余裕」にある。そもそも福沢の知的レベル言語能力はきわめて高い。これがさらに時代に押し上げられているわけだから、一つの世界しか知らない凡人が福沢の具体的な論理をどこまで真に受けていいのか難しいところがある。

福沢は幕末、緒方洪庵の適塾にいた。仲間とよく議論をしたという。だいたい福沢が勝つらしいのだけれど、議論が決着したら立場を入れ替えてもう一度議論をするという。これもだいたい福沢が勝つという。
ちょっと考えられない。福沢にとっては議論世界でのフレキシビリティーこそが問題だったということだろう。

福沢にとって「心の余裕」こそが根拠であるなら、福沢の言説集合に普通に理解できる体系みたいなものは存在しないのではないだろうか。「心の余裕」をてこにこの世界を自由自在に生きるというのが福沢の人生観であって、凡人にはとても真似できないようなある種の理想だよね。

果して以て人に異なるあるか。孟子曰く、何を以て人に異ならんや。堯舜も人と同じきのみ

「孟子」のなかに以上のような言葉があるのだけれど、福沢も孟子と同じ境地にあると思う。