第一章 伊佐山刑事
第二章 谷沢検事
第三章 綾部弁護士
第四章 石嶺裁判官

となっていて、これらの人物が殺されるまでの成り行きみたいなものが、それぞれの人物の三人称主観形式で書かれてある。この4人の人物の共通点というのは、何年か前の殺人事件の裁判に関わっていたというもので、その裁判で有罪とされた犯人が、懲役6年を勤めて出獄して、自分の裁判の関係者を殺して回っているらしい。

小説における三人称主観形式というのは、例えばこの小説の冒頭

「心臓の鼓動が聞こえた。緊張しているのか江木雅史は自問した。確かに緊張している。それは当然の事だ」

のように、江木雅史という三人称が主観的に語る小説形式の意味である。
ただ、三人称主観形式という言葉は、今さっき私が作ったものであって、おそらくすべての人には初耳の言葉であろう。

この小説は、伊佐山刑事、谷沢検事、綾部弁護士、石嶺裁判官という人物の三人称主観形式パートの間に、殺人の罪で有罪が確定した江木雅史の三人称主観形式パートがはさみ込まれるという形になっている。江木パートの三人称主観が語る真実は、江木が冤罪であるということだ。江木の上司が殺されたのだけれど、江木は殺っていない。上司が殺された時、江木は一人で釣りをしていた。

「江木は上司を殺していない」というが真理があるなら、すなわち江木は冤罪だという。そして冤罪の怒りによって、裁判に関わった人たちを次々と4人まで殺したという。冤罪というのは恐ろしいと、冤罪という煉獄に落ちた江木には同情すると。

ちょっとマテ。ほんとうに江木は冤罪なのか? 江木が冤罪であるという真理は、江木パートの三人称主観が語る真実に依存している。三人称主観が語る事柄の真実性は、この世界には真実があるという私たちの確信に依存している。しかし、真実などというものは、どこまでも確定できるわけでもないだろう。
この小説を読んで、読者が江木は冤罪であると思ってしまうのは、この小説の形式に依存しているからではないだろうか。

状況からして江木は黒だ。上司が殺された当日に、その上司の胸倉をつかんでいる。アリバイもない、あいまいながらも目撃者もいる。
最も重要なのは、江木が出獄した後に、裁判関係者を殺して回っていることだ。そもそも、一人も殺したことのない人間が、復讐として安易に殺人という手段を選ぶだろうか。

三人称主観が江木が冤罪だと語ったとしても、そんなものは信ずるに足らない。そんなことを信じていたらきりがない。テレビの言うことは本当だろうとか、医者の言うことは本当だろうとか、大学教授の言うことは本当だろうとか、三人称主観の語ることは本当だろうとか、馬鹿げた暇人にどこまでもマジで付き合っていたのでは、脳細胞がいくつあっても足りない。