例えば人間個人が、意識の一体性を持って成立しているのはなぜだろうか。

西田幾多郎は、それは「統一的或る者」という何らかの力が存在しているからだ、と仮定している。精神的で根源的な力を基礎にして世界のあり方を説明しようというのが、この「善の研究」という哲学書だ。

正直言って、精神的力を仮定しての世界説明ではオカルトになってしまうだろう。普通、簡単には受け入れられないね。
まあでもよく考えてみると、科学というのは精神的力というのは受け入れないのだけれど、物理的な力というのは受け入れている。
宇宙には4つの力があるという。重力、電磁気力、弱い力、強い力。宇宙に力があるというのは認められているわけだ。例えば重力って何だろう? 質量のある物同士は互いに引き合うというのだけれど、どういう構造で引き合っているんだ? 

私は重力研究家でもないから、簡単にウィキを見てみる。

うーん、重力発生の理由についての言及はないね。どーせそんなものは分からないのだろう。重力の原因は分からないけれど重力の結果は明らかだから、重力なる力が仮定されていて誰もがその仮定を認めているわけだ。
同じことが、西田幾多郎の仮定した精神的力としての「統一的或る者」についても言うことができるのではないだろうか。すなわち、「統一的或る者」という力の結果が明らかで、その力の存在の仮定を受け入れたほうが有用だ、ということが説得力をもって語られたら、精神的力の存在について一考してもいいのではないだろうか。

人間の価値は何によって決められるのだろうか。その人の地位だろうか、名誉だろうか、お金だろうか。
もちろん違う。人間の価値とは外部から計られるものではなく、人間内部から立ち現れてくるものだ。「統一的或る者」という力が、人間の心と体を統一的にまとめているなら、その人間個人の内部にある「統一的或る者」以外に価値はありえない。そして先ほど「統一的或る者」という力が存在すると設定したばかりだ。

統一あるところには力が隠れている。人間個々に「統一的或る者」という力が付与されているなら、それは犬や猫にもあるだろう。犬や猫もワンワンニャーニャーと自らの一体性を主張している。さらに言えば、すべての生きとし生けるものに「統一的或る者」は存在していると推論できるだろう。

意識があるから「統一的或る者」という力が発生するのではない。逆だ逆。「統一的或る者」の統一力の結果、意識は存在している。重力と物質との関係も同じだろう。重力は物質の結果ではなく原因だ。

さあどんどん行くよ。

統一あるところに「統一的或る者」はいる。人間社会はなぜ一体性を形成しているのか? 「統一的或る者」の統一力の結果だ。国家は、その構成員の合意によって形成されるなどという簡単なものではない。人間の意識の根源である「統一的或る者」とは別のレベルで、国家の一体性の根拠となっている「統一的或る者」という統一力が存在している。

「統一的或る者」はアルファでありオメガである。時間や空間というものも、「統一的或る者」が作り出したこの世界を理解するための形式に過ぎない。「統一的或る者」はこの世界において、時間や空間のなかに多層的に存在しているかのように見える。

正義とは何であるか。
体系を内部から支える力だ。すなわち「統一的或る者」である。
善とは何であるか。
体系を内部から支える根拠だ。すなわち「統一的或る者」である。
神とはなんであるか。
「統一的或る者」そのものである。

、とまあこのように、西田幾多郎は1つの力を設定することで、すがすがしいまでの突き抜けた論理を形成している。

私は、西田幾多郎が「力」を設定したくなる気持ちも分からないでもない。近代以降の啓蒙思想ってちょっとおかしいところがある。
私の経験上、強い気持ちが強い論理を育む、ということはあっても強い論理が強い気持ちを育むということはない。啓蒙観念というのは、この辺の区別があいまいだよね。
だから、「善の研究」というのは、哲学というより哲学のアンチテーゼとしての「哲学」みたいなものだと思う。