寝てるときに見る夢について。
夢というのは、後から思い出すとぼんやりしたものなのだけれど、夢を見ているその時においては異様なリアル感がある。

夢の特徴というのは、確信というものが急にドンって与えられるところにあると思う。今まで海で泳いでいたら次の瞬間空を飛んでいたりという夢を見たとしても、なぜ急に場面が変わったのか不思議に思ったりはしない。ああ、そういうものかと思ってしまう。夢の中で、友達を探していると急にそういえばあいつはオレが殺したんだと思い出したりする。
夢の構造とはどうなっているのか? 

森鴎外の作風は、時代小説を書き始める以前と以後とでは異なっているという。鴎外は小説世界にまとまりをつけるのが嫌になって時代小説を書きはじめたという。
「山椒大夫」の中にこのようにある。

「子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗(あらが)うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない」

この母には主体性というものがない。相手に強く出られると、「主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢い」になってしまう。「山椒大夫」という小説は、勧善懲悪とかピカレスクとかさらに言えば無常観とか、そのようなものとは全く無縁に、ただこの母のような登場人物達がその運命の中で喜んだり悲しんだりしているだけだ。


これって夢の構造と同じだろう。

「山椒大夫」をヒントに夢の構造について考えてみる。
そういえば夢の中では、抽象的な価値観の序列ってないよね。好きとか嫌いとかはあるけれど、善とか悪とかはない。抽象的な価値の序列というものはなく、ただ好きなもの嫌いなもののリアルな実体のみの世界だという。
だから、その世界において強力な実体があらわれると、もう拒否することが出来ないんだよね。普通は抽象的な価値の序列みたいなものが心を防御していると思うのだけれど、夢の世界においては、その防御がないから、実体が直接心を占拠して確信になってしまう。

志賀直哉の奇妙な小説も同じように説明できる。「暗夜行路」の主人公は気分に支配されている。時任謙作は小説のはじめは不快な気分の状態だったのだけれど、終わりのころになると調和的な気分になってくる。気分の変化に理由とかはない。時任謙作は、ふと自分の父親は本当の父親ではないと思う。するととたんに祖父こそが本当の父親であると確信する。
夢の構造と同じだろう。

夢の構造と「山椒大夫」と「暗夜行路」をつなげて考えるとはどういうことかというと、明治という時代が、強力な実体並列の世界から抽象的価値観の序列の世界への移行の時期だったのではないかという意味となるだろう。


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