「わが闘争」を読む限り、ヒトラーが目指したものはドイツの一体性というものだろう。

何かの一体性を形成するというのは、じつは難しい。
国家においても、独裁者が強権によって統一を維持するということは理論上はありえるけれども、その程度の一体性では、その国はたいしたことないだろうということは容易に想像がつく。
風邪を引いたとする。病院にいくといろいろ薬をくれる。しかしあんなものは気休めであって、風邪のウイルスを撃退するのは体の免疫機能だ。免疫とは結局個体の内と外とをわける機構であり、免疫力はその個体の一体性を維持する力に依存している。そして、体の一体性をいかに高めるかというと、これは難しい。

ヒトラーはどのようにドイツの一体性を高めようとしたか。
まずドイツの内と外を区別する。ドイツの内側はアーリア人で、ドイツの外側はユダヤ人だという。ヒトラーのユダヤ人差別というのは、それが目的というよりも、ドイツの一体性を高めようとすることの手段だろう。
ヒトラーのユダヤ人にたいする歴史的事実は確かに極悪だった。だからといって、ヒトラーを知らなくていいということにはならないだろう。それほどヒトラーの思想というのは強力なんだよね。

国家でも人でも、その一体性というのは極めて重要で、それは価値といってもいいくらなものだ。ヒトラーはこのように言う。

「同盟政策についての問題。誰の目にも明白な欠陥に満ちたワイマールのドイツと、およそ同盟する国があるかどうか」

これは男についても同じで、誰の目にも明白な欠陥に満ちた男と、およそ結婚する女があるかどうか、という文章も成り立つ。明白な欠陥とは、国家においても人格においても、その一体性の欠如に由来すると考えてそう的外れでもないと思う。

ヒトラーは、一体性において大事なことはその形式ではなく内実であるという。そりゃそうだ。ではヒトラーの考える一体性ふあれる国家の内実とはどのようなものか。

「ただ健全であるものだけが子供を生むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることは恥辱であり、むしろ子供を生むことを断念することが最高の名誉である、ということに留意しなければならない。しかし反対に、国民の健全な子供を生まないことは非難されねばならない」
「病身であったり虚弱であったりすることは、恥ではなくただ気の毒な不幸に過ぎない。しかしこの不幸を自分のエゴイズムから、何の罪もない子供に負わすことは犯罪であり、これに対して罪のない病人が自分の子供を持つことを断念し、他日力強い社会の力強い一員になることを約束されている民族の見知らぬ貧しい幼い子供に愛情を注ぐのは賞賛すべき人間性の尊さであると、国家は一人ひとりに教えるべきである」

現代の建前的常識によっては、このようなヒトラーの言論は認められない。人間の価値は平等であるとされている。ところが多くの人の本音はどうか。
ネットでは知的障害者やその親に対する差別の言説があふれている。多くの人がそれを見て、ああ他の人の本音もそうなんだ、と思い安心する。
思考が分裂していて一体性に欠けているわけだ。結果、ヒトラーの一体性のある言説に比べて、このような人が何を語ろうが、言葉の力が劣ることになる。

そう、そして誰もがしょうがないよねって思う。本音と建前を分けるのは、この世界を生きるためにしょうがないと思う。
このような意見に対して、ヒトラーはこのように言う。

「もちろん、今日のあわれむべきおおぜいの俗物どもには、このようなことは決して理解できないであろう。なるほどおまえたちにはとてもできない。おまえたちの世界はこういうためには適当ではないのだ。おまえたちはただ一つだけ心配がある。つまりおまえたち個人の生活だ。そしておまえたちにはただ一つの神かある。つまりおまえたちの金だ。たが、我々はおまえたちに用はない。自分たちの生存を支配しているものを金とは考えずに、他の神を信じているおおぜいの人々に向かうのだ。われわれはなによりもまず青年に呼びかける。彼らの父たちの怠惰と無関心が犯した罪に彼ら自身で挑戦するのだ」

この「わが闘争」という本は口述筆記だという。だからヒトラーは、自らの思想を語ると同時に、それに対する異論への反論を考えているわけだ。ヒトラーというのは、一体性の思想と懸絶した言語能力を併せ持った、ある種の怪物だろう。

一体性の思想が成立するとするなら、それは強力なものとなる。近代以降、一体性の思想というのは基本、存在しない。何らかの一体性の存在には何らかの力が必要だろう。例えば、地球がその一体性を維持しているのは重力という力があるからだ。生物の個体も一体性を維持しているわけだから、おそらく何らかの力が作用していると思うのだけれど、その何というか生物力みたいなものがあるのかないのか、どのようなものか全く問題にされない。

すなわち近代以降においては、生物の一体性、さらには個々の人間精神の一体性まで前提とされてしまっている。人間精神の一体性を直接問題にしてしまうと、生物力みたいなオカルトになってしまう。
この社会では、自分の自己同一性の懐疑に悩む人も多い。しかし現代医学のレベルではこのような人を救うことは難しい。科学というものが、直接精神の一体性の根源を問題にすることができないからだ。

ヒトラーは、このような近代社会の不手際に対して別の世界観を提示する。
国家と個人。国家の一体性と個人の一体性が、互いに互いを強化し合うシステムを形成できれば、今までよりも強力な世界が立ち現れるだろうというわけだ。

西洋近代哲学のなかで一頭地を抜く思想だろう。