小川洋子という小説家は読んだことがなかった。
たぶん。
でも記憶って曖昧だから、はっきりとは分からない。よく子供たちに、「その話は聞いた」と言われる。でもしょうがないよね、忘れちゃうんだから。何回でも聞いてくれてもいいじゃん、と思う。

「博士の愛した数式」は、かつての交通事故で80分しか記憶が持続しなくなった元数学教授をめぐる話だった。語り手は、その元数学教授宅に送り込まれた家政婦。

この元数学教授「博士」は、記憶障害以前にコミュニケーション障害、さらにいえば発達障害だろう。記憶障害になった結果、発達障害になるなんてことはない。博士は最初から発達障害で、80分しか記憶が持続しないという記憶障害の方は、小説世界全体を支配するところの設定みたいなものだろう。

80分しか記憶が持続しない世界とは何を意味するかというと、積み重ねがない、進歩がないということだろう。そのような世界が成立するのなら、そこは静かで美しくてつまらない場所だろう。この小説では、進歩がない世界を数学という第一級の学問をてこに、小説世界の整合性を整えてうまくやっているけれども、現実はなかなかそうはいかない。

私、子供のころ発達障害だったと思う。今から思い出しても、ぼんやりして活力のない子供だった。はっきりしたことは分かるのだけれども、曖昧なことは分からないんだよね。世の中は曖昧なことだらけで、私は曖昧さに恐怖するオドオドした子供だった。曖昧な世界を克服しようとして、文学にはまりこんだ。

年をとるうちにだんだん曖昧な世界に対する恐怖感がなくなってきて、35歳ぐらいでかつての暗い世界を完全に克服した。妻とは大学時代に付き合い始めてそのまま結婚したのだけれど、その妻が何年か前に、

「あんた最近変わったよね。私はオドオドしたmagamin君が好きだったのに」

などと言っていた。本当に失礼千万なんだよね。

「博士の愛した数式」という小説は、不器用な博士がいかに救われるかという話だと私は理解したけれども、その視点ではかなりうまく出来た小説だと思った。昔の事まで思い出したぐらいだし。