乙一17歳のデビュー作だという。17歳でこれだけのものが書けたなら、たいしたものだと思う。

語り手の「わたし」が死んで、小5の健と小3の弥生の兄弟が「わたし」の死体をどうやって隠すかという話だった。

死んだ「わたし」というのが語り手だというのがちょっと面白い。近代小説の本質は、語り手の三人称客観形式にある。日本文学においては、島崎藤村あたりが語り手の三人称客観形式の確立者らしい。
死んだ「わたし」が語り手だというのは、だから私小説と三人称客観形式との中間みたいなものだろう。甘えた感じの私小説形式と殺伐とした三人称客観形式との中間の語り口は、なんだかちょっと安心するところがある。

ミステリーとしても、この小説はうまく出来ていると思う。細かい伏線までかなり回収しているだろう。大きい伏線については読んでもらうとして、小さい伏線だと、村でゲートボールが流行っているとか、倉庫の扉が開きにくかったとか、そういうのまで回収して、話が引き締まる感じだね。

小学5年の健という少年は興味深い。妹の弥生を引っ張って、「わたし」の死体を隠そうと努力するのだけれど、そもそも健に「わたし」の死体を隠さなければならない必然性というものはない。確かに「わたし」は弥生のちょっとした悪意で死んでしまったが、健が殺したわけではない。妹のことがとりわけ好きなのかというと、そのような健の感情表現は本文中にはない。健は、頭がよくて自分をしっかり持っていて、一般的道徳観念が欠如しているらしい少年として、「わたし」によって語られているだけだ。

健という少年の自覚的意思、すなわち強力な自己同一性が、この小説の整合性の根拠になっている。この兄弟がかなりの困難を乗り越えて後に読者に不審の念を抱かせないのは、健という少年の根拠不明の強力な自己同一性にある。

まあでもこういう人格形成というのは現実世界ではありえない。人間はそれほど強く作られていない。しかし最近の漫画とか、根拠不明の強力な自己同一性を備えた登場人物って目立つ気がする。「黒子のバスケ」もそんな感じだった。推理小説の名探偵が大量生産されているようなものか。