ライトテイストの読みやすい文章の推理小説だった。
この本自体は1981年刊行なのだけれど、話の舞台は1930年代のイギリス。 バーフォード伯爵のオールダリー荘という大邸宅で事件が起こる。

本当に軽い感じ。このオールダリー荘を映画で使いたいのでちょっと中を見せてくれということで、映画のプロデューサー、映画俳優、脚本家がこの大邸宅を訪れる。そこには、バーフォード伯爵夫妻、その娘と2人のボーイフレンド、バーフォード伯爵婦人のいとこ夫婦がいる。そのうち、有名映画女優がピストルで殺されて、犯人は誰か、というもの。

最後は刑事同士の推理比べみたいなことになる。二人の刑事が、オールダリー荘内の人間模様をより整合的に提示して、どちらがジョーカーを見つけるかという競争をする。

推理小説とはどのような構造になっているのだろうか。
刑事の推理によって犯人は自白する。自白によって真理は確定する。刑事は真理にいたる過程というのを最後に種明かしする。読者は、そういえばそんなことが書いてあったよね、アレがヒントだったのかと納得したりする。
いったいこの構造は何なのか。いつもメガネをかけていない人がその時だけかけていたとか、ある人だけが絨毯でつまづいたとか、そんなフラグに観察者はいちいち付き合わなくてはならないものなのだろうか。
細かいフラグがそれぞれ回収されて、結果犯人が自白するとしたら、それは作者と名探偵とのコンビネーション世界観が完結したということなのだろうけれど、それがこの現実世界と何の関係があるというのだろうか。

推理小説というのは、原因と結果のグロテスクな単純化だろう。だからこの現実世界には、原因と結果の関係性についての単純化パターン意識みたいなものが存在するのだろう。
言葉を変えれば、この世界は整合的であるはずだとか、この世界には意味が与えられてあるはずだという観念が、この世界には存在するのだろう。

このような非合理な信念が無条件に与えられるなんていうことは常識的にありえない。だからこの「切り裂かれたミンクコート事件」という推理小説でも、舞台がオールダリー荘とその近辺、登場人物も一定数に限定されている。
ということは、私たちの現代世界の世界認識も、ある一定の範囲に限定されているのではないだろうか。

推理小説の登場人物は、自由に見えて自由ではない。作者の世界観にとらわれている。彼らの常識に外れた言動は、最後名探偵によって回収される。このような小説を読んで私たちは安心する、下には下があるという。小説よりも推理小説のほうが楽に読める。レベルが低いから。何のレベルかというと、自由の世界観のレベルが。
純文学より大衆小説のほうがレベルが低い。なぜなら自由の世界観のレベルが低いから。

マトリョーシカ人形みたいなものだろう。

いったい最初に世界認識を限って、その限りを当たり前だとしたところのものとは何なのだろうか。
フローベールの「ボヴァリー夫人」の中に以下のような表現がある。

「しかしいったい何が彼女をこんなに不幸にしているのだろうか? 彼女を転倒させてしまった異常な禍はどこにあるのか? 自分を苦しめる原因を捜すように彼女は頭をあげて周囲をみまわした」

推理小説の登場人物が、何で自分はこのような奇妙な世界に迷い込んでしまっているのかなんて、「頭をあげて周囲をみまわす」なんていうこともありえるだろう。