宮崎市定といっしょに、ゆるーい感じで「論語」について考えていこうかという。

孔子の弟子で曾子(そうし)というのがいる。こいつが出来るやつなんだよね。論語というのはだいたい孔子が語ったところのものなのだけれど、ちょいちょい孔子の弟子がドヤ顔で語ったりする。孔子の話に比べると、やっぱり弟子だから落ちるところはある。しかし曾子というやつは、なんだかキラリと光る部分を持っている。
例えば、

泰伯第八193
「曽子(そうし)日わく、もって六尺(りくせき)の孤児を託すべく、もって百里の命をよすべく、大節に臨んで奪うべからざるなり、君子人か、君子人なり」

加藤清正が論語のこの部分を思い出しながら、二条城で秀吉の遺児である秀頼を守ったという逸話もある。
言葉の力という点においては、曾子は孔子に負けてない。

曾子はいいよなーと思う。
泰伯第八191はこのように始まる。

曽子、疾(しつ)有り。孟敬子(もうけいし)之を問う。曽子言いて日(い)わく、

病気の曽子に孟敬子というヤツがおみまいに来たんだな。曽子言いて日わく、だから、孟敬子に言霊をぶつける感じだろう。来るよー曾子節ー。

「鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀し。人のまさに死せんとす、その言やよし」

曽子は詩人だろう。私の話を聞け、という代わりの言葉がこれだから。たまらんね、まったくたまらん。いったい曽子は何を孟敬子に語ろうというのか。

君子道に貴(たっと)ぶ所の者、三。容貌を動かして、斯(ここ)に暴慢に遠ざかり、顔色を正しくして、斯に信に近づき、辞気を出して、斯に鄙倍(ひばい)に遠ざかる、籩豆(へんとう)の事は則(すなわ)ち有司(ゆうし)存す。

あれ??? 曽子は普通の事を言い出したね。ちょっと訳してみる。
君子は3つのことを大事にする。顔つきを変えるときもドヤ顔はしたらだめ、顔色はいつも落ち着いた感じで、しゃべるときは下品なことはいかんよ。つまらない仕事は部下にやらせる。

私は正直、曽子も外すということがあるんだな。だってそれ以外考えられないでしょう? まあまあ、「鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀し」という部分だけでもすばらしいからいいだろう、と思っていた。

しかしこの部分を宮崎市定は、目からうろこで解釈している。
まず「君子」という言葉を、「君子であるべきあなた」と解釈する。

これはあるな。

だから泰伯第八191は曽子最後の、友である孟敬子に対する祈りの言葉になるんだろう。
「君子」を「君子であるべきあなた」と解釈しなおして、泰伯第八191の後半部分をもう一度訳してみる。

君子であるべき孟敬子さんは3つの事を大事にして。あんた、話をする時はすぐ自慢話になってドヤ顔になっとるよ、そういうのはアカンよ。顔色はいつも穏やかにして、喋る時はあんまりヒドイ言葉を使ったらアカン。あんたちょいちょいカッとなるからなー。あと、何でもこまごま部下に言ったらアカン、最後のところは部下にまかせていかんと

おーー、関西弁風に訳してみたけれど、前半と後半の語調を整えれば、かなりピッタリ来る感じだろう。
こんな解決策があったとは。さすが宮崎市定だよなー。

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