論語を読むと、いつも引き締まった気持ちになれる。論語は現存する書物の中で最高峰であるというのは、まず間違いない。

なぜそんなことが断言できるのか、ということを説明します。

よく言われるのが、西洋には哲学があって東洋には哲学はないということ。
ふざけるな。ありえない。
そもそも哲学とは何か? 哲学者とは何か?

ニーチェ 「権力への意思」 972 にこのようにある。

「私は最後にこう認めるに至った、哲学者には異なった2種類があると。すなわち、
 1 価値評価の何らかの偉大な事実を確立しようとする哲学者。
 2 そうした価値評価の立法者である哲学者。
前者は全ての過去の事物をその未来の有用のためにつかうという人間の課題に奉仕している。
しかるに後者は命令者である。彼らは言う、かくあるべしと」

前者の哲学者は二流、後者は一流の哲学者だ。西洋近代の大哲学者は全て二流だ。価値評価の立法者である哲学者というのを、私はプラトンと孔子以外に知らない。そして、二つを読み比べた場合、孔子の論語はプラトンをはるかに凌駕している。

論語を、何か役に立つ教訓集だと思ってはダメだよ。論語というのは、これは驚くべきことなのだけれど、その一節一節が互いに互いを保障しあい、互いに互いを持ち上げあい、普遍的世界観というものを形成している。この論語的普遍的世界観が妥当なものであったのかどうかという判断なのだけれど、現在、日本や中国がまとまりとして存在しているところを思えば、妥当であったと判定して問題ないだろう。
この論語的世界観の強力さというのは、プラトン的世界観と比べて明らかだ。西洋は、プラトン的世界観を保障するものとして、一神教のキリスト教を必要とした。東洋には絶対神は存在しない。その理由は、論語的世界観が一定以上の強度を持っていたので、社会の秩序を保障するところの絶対神を必要としなかったからだろう。

論語のすごさを知ってもらうには、実際に読んでもらうしかないのだけれど、一つ論語の深さを紹介します。

論語 里仁第四 073 にこのようにある。
「子日わく、人の過ちや、各々其(そ)の党に於(おい)てす。過ちを観て斯(ここ)に仁を知る」
これをどう読むか。 私なんかは、人の振り見てわが身を、みたいな感じで読んでしまう。例えば、東洋哲学の碩学、宇野 哲人は、
「過失を見ると仁者が不仁者かがわかる」
と解釈している。妥当な線だと思う。
ところが、吉田松陰はこの部分を、講孟箚記の告子上第11章の箚記で以下のように解釈している。

「人を殺すは不仁なり、殺すの心は必ず仁なり。仁は愛を主とす。人を愛する。己を愛する。同じく仁なり。もし愛するところなくんば、憎むところなく、殺すところなし」

驚くべき論理を展開している。「論語」の「過ちを観てここに仁を知る」のなかの「ここ」を、過ちを犯した本人その人自身をさしていると、吉田松陰は判断しているわけだ。
そして、この吉田松陰の強力な論語解釈によって、論語の世界観は崩れるのかというと、そうはならない。論語世界はより強化されている。

論語とは計り知れない強度を備えた言論体系なんだよね。