「本が好き」内の信頼できる複数のレビュアーさんが、貴志祐介の「黒い家」を紹介していたので読んでみた。
貴志祐介という小説家が存在しているということは知っていたけれども、貴志を「きし」と読むのは知らなかった。たぶん貴志祐介、初読書だと思う

実際読んでみて、かなりよく出来たホラー小説だな、と思った。

この主人公の保険屋の男というのが、ちょっととろいんだよね。
主人公の彼女というのが、小柄で優しくて主人公のインポも許してくれるような女性だ。
このような女性は絶対いないとは言わないけれども、ほとんど天然記念物だね。作者によってこの女性をあてがわれた主人公は、普通に見えてメンタル弱めなのが推測できる。実社会ならこれでかまわないのだけれど、いやしくもこれから「黒い家」を訪れようかというのでは先行き不安だね。

主人公は精神分析が好き。さらに、主人公の彼女は精神分析を学ぶ大学院生だという。これはやばいね。「黒い家」に行ってヤバイヤツが出てきたときに、精神分析などというものが役に立たないことは明らかだ。主人公は精神分析などという関係ないことをやっている間に、かなり追い詰められていくだろうなということが推測できる。

主人公は、会社にかかってきたやばい電話にマジレスして、自分の秘密の身の上話を喋ってしまう。これはいかんよ。これから「黒い家」に行こうとするやつが、この無防備さ。 こいつ、死ぬまであるな、と思った。

主人公は、普通を装われながらも、ちょいちょい弱さをアピールされている。

一方、犯人の方なのだけれど、ほとんどサイコパスあつかいだな。人間の心がないみたいな推測のされ方で、「背徳症候群的人格障害」という病名まで与えられている。
私は、背徳症候群的人格障害の人に会ったことはないけれども、明らかに何らかの人格障害だろうという人は何人か知っている。私は社会の底辺に近い会社に20年以上勤めているのだけれど、ちょいちょい人格障害その他の精神疾患が疑われる人が紛れ込んでくる。よくいるのが、論理が通じない、根拠なく威張る、弱いものをいじめる、というコンボで責めてくるやつ。こういうやつらにどう対処するかというと、最後は恫喝と無視のコンビネーションだね。恫喝とかひどいと思われるかもしれないのだけれど、これは底辺の世界の話だから。
私は恫喝しながらも、人格障害のやつらにも「心」はあると思っている。心の中には善があると思っている。しかしね、その善は極めて厚い氷に覆われていて、とても私なんかでは溶かすことは出来ない。

孟子 告子章句上 八 にこのようにある。

牛山の木、かつて美なりき。 以下はこの部分の私の現代語訳。

「孟子は言う。あの牛山を見ろ。あの山はかつて木に覆われ美しかった。だが薪として、木は切られてしまった。だが山はまだ生きていて、雨や露の潤すところ、切られた切り株にも緑がたちこめた。
ところが人々は牛や羊を放牧する。やわらかい緑もすべて食べられてしまった。
長い月日がたち、何もなくなった山を見て、人々は、この山ははじめから何もなかったと思うようになる。しかしこの今の牛山は、本当にあるべき牛山の姿なのだろうか? 人間の心も、この牛山と同じなのではないだろうか? 人が良心を無くしてしまう理由も、日々において牛山の木が失われてしまったことと同じなのではないだろうか? 日ごとに木を切ったのでは、その美しさを保つことはできない。あの夜明けの緑の芽生えも、良心を失った人が多いことを思うなら、昼間にそれを牛や羊に食べられてしまったのだろう。このようなことを繰り返せば、緑の芽生えも失われる。緑の芽生えが失われれば、人は禽獣と変わらなくなるだろう。人が禽獣であるさまを見て、その人は善であったことはないとして、そのことで本当に人の性善を否定したことになるのだろうか。正しく育てれば成長しないものはないが、育てるのをやめればそれは消えてしまう。
孔子が、「取ればあり、捨てれば失う、出入り時なく、あるところを知らない」と言ったのも、このような意味ではないのか?」

真理とはそれなくしては自分が生存できないものであるとするならば、この孟子の言説を真理だと確信したとして、別に何の問題もないと思う。