この、ちくま学芸文庫「フーコーコレクション4」では、狂人さらには精神病院の成り立ち、犯罪者さらには刑務所の成り立ちが語られている。
私たちは、病人は病院へ、狂人は精神病院へ、犯罪者は刑務所へみたいなことは当たり前だと思っているが、歴史的に考えれば、実はこれ当たり前ではない。例えば、18世紀のフランスでは、孤児とか浮浪者とかも刑務所的なところに放り込まれていた。

問題は、なぜフーコーが狂人や犯罪者について語るのかということだ。、これはちょっと飛躍になるのだけれど、フーコーは、この社会に何らかの価値体系があるとして、その周辺の視点に立つことによって、その価値体系を相対化しようということだろう。
当たり前の事は、それが当たり前の世界の内側にいては、当たり前としか思えないという、実に当たり前の話なんだよね。

おそらく話は、ホロコーストにさかのぼるのだと思う。第二次大戦中、ドイツで強制収容所に送り込まれたのはユダヤ人だけではなく、狂人や犯罪者も同じ運命だった。
ホロコーストというのは、ナチスドイツの特殊事例と言うのではなく、近代ヨーロッパには、まあなんというか隠された排除の哲学論理みたいなものがあって、
ホロコーストとは、ヨーロッパ近代精神のカリカチュアではないかという、まあ、フーコーの直感みたいなものがあったんだろうと思う。

これは別に分かりにくい話でもない。仕事で明確な目標があって人数が集められて、仕事が始まったとする。そのうち使えないやつというが明らかになってくる。使えるか使えないかという境界線上のやつらは、明らかに使えないやつをさらに蹴落とすことによって、自分たちが境界線内に残れることの保障にしようとする。
このようなことはよくある。
そのうち、明確な目標の回りに真理の体系みたいなものができたりする。この場合はこうするべきだ、みたいな。さらに、明確な目標が忘れられた時に真理の体系のみが残ることはありえる。仕事レベルだと、他と比べてということが出来るけれども、国家レベルだと方針転換も難しい。

と、ここまでの予備知識で以下のフーコーの言説を読んでみる。

「思うに、重要なことは、真理は権力の外にも、権力なしにも存在しない、ということです。真理はこの世のものなのです。真理は、この世の数々の制限があればこそ、生み出されたものなのです。真理は権力作用、それも調整済みの権力作用を手中に収めています。どの社会も固有の真理体制を、すなわち真理についての固有の一般政策をもっています。具体的にいえば、言語表現に真偽の区別を与えるメカニズムとベクトル、真理の獲得に有効とされる技術と手続き、何が真であるか決定する権限を持つ人間の地位、などがその内容です」

真理というものは絶対というものではない。ある観念無くしては、集団が生存できないとするならば、その観念はその集団において、集団内の権力関係の中で真理として押し上げられるだろう。この真理のうさんくささみたいなものを、フーコーは真理世界の周辺、すなわち、狂人、犯罪者、性的逸脱者の立場から明らかにしようということだと思う。

これねー、何も知らないでフーコーだけ読むと、真理を相対化するフーコーすごい、みたいになると思うけれど、ニーチェを読んでから判断するなら、フーコー、地道に頑張ったなーということになると思う。