ニーチェを読むための予備知識として、啓蒙とは何かを考えてみる。
近代教育は、近代人にふさわしい知識を与えるところの教育であり、発展途上国なんかは、教育制度が整備されていないからいつまでも途上国であると考えられたりする。現代日本においても、教育、啓蒙というものには、かなりの価値比重が与えられている。

しかし、この現代教育における啓蒙の比重というのは、はたしてふさわしいものなのだろうか? 

精神科医の木村敏による、人間の存在構造についての仮説。
3層に分かれている、というもの。最下層は外界と直接接するところの、生存本能や情動が支配する世界。これは全ての生物に存在する。
第2層は、その種に特有の価値判断によって、情報がカテゴリー化されている世界。これは、犬や牛や馬にも存在する。牛は馬には興味が全くないらしいが、牛同士は興味が存在するらしい、見つめあったりするし。価値の差異というのが存在するのだろう。
人間の最上層は論理の世界。合理的推論が支配する。
人間の存在構造とは、最下層からエネルギーを調達しながら、第2層と最上層との情報の循環が、人格というものを形成するという。
精神疾患を図式的に理解するなら、最下層からのエネルギーの調達が弱いと、分裂病になり、第2層と最上層との接続が弱いと境界例になり、第2層の形成が弱いと離人症になるという。

例えばこのような仮説があるとして、教育的啓蒙というのは、最上層の論理世界にしか影響を及ぼせないわけで、啓蒙と言うだけでは人格の十全な形成には不十分だということになる。啓蒙が無条件に真理だということはありえないわけだ。

この予備知識を持ってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」898
「人間の卑小化の増大は、より強い種族の育成に想いをかけるための原動力である。このより強い種族は、卑小化された種が弱まり、ますます弱まりゆくところで、まさしくおのれの有り余る力をふるうのである」

このようにあって、啓蒙というものが人間存在の表層にしか影響を及ぼせないと認めてしまうのなら、人間の存在体制の最下層である情動の世界からどれだけの力を汲みだせるかというのが、人間の価値を決定するような大きな価値となるだろう。
これはべつに難しい話でもなんでもなく、気の弱いやつよりも気の強いやつのほうが価値が高いと判断されやすい、という話なんだけれど。
続きは明日