ニーチェが難解だとされるのは、言っていることが難しいというのではなく、まあ何というか、誰もが持っている固定観念を、誰もが相対化できないからだと思う。
人間というのは、それなくしては生存できないような観念を、普遍的真理だと思い込む習性がある。例えば、潔癖症の人が手を洗ってばかりいたとする。正常とされる人は、そのような人を不思議に思う。そんな手が荒れるまで洗う必要もないのにと。しかし、潔癖症の人にとって、手を洗うことが自分の生存を保障すると確信していたとするなら、その人にとって手を洗うことは真理となるだろう。
キリスト教などのような一神教の宗教を信じる人は多い。キリスト教を信じなければ、社会の一体性や秩序が保てないとするなら、その社会においてキリスト教は真理となるだろう。

原因と結果が転倒している。もう一発いこう。

1という数は1だ。1が1ではないなどということはありえない、と普通考える。しかし、1がいつでもどこでも1であるということは、いったい何によって保障されているんだ? 
何によっても保障されてはいない。
人間個人にとって、その自己同一性と、1がいつでもどこでも1であるということはリンクしている。1=1というのは、何らかの真理何らかの原因というものではなく、社会がその維持のために個人に要請している自己同一性というものの結果なんだよね。

このような考え方が正しいとか正しくないとか、そのような判断はおいといてだよ、この予備知識をもってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」484
「思考作用がある、したがって思考するものがある、デカルトの論拠は結局こういうことになる。しかしこのことは、実体概念に対する私たちの信仰を当たり前のものとして設定することに他ならない。デカルトのやりかたは、達せられるのは何か絶対に確実なものではなく、一つのきわめて強い信仰の事実にすぎない。このデカルトの形式においてでは思想の仮象性を退けることはできない」

デカルトの「我思うゆえに我あり」というやつ。ニーチェは、これを当たり前ではないと言う。「我思うゆえに我あり」と認識するためには、認識主体に何らかの一体性がなくてはいけない。しかし、この一体性というものはあたりまえではない。
「我思うゆえに我あり」という言説は、正確に語るなら、「我思うゆえに我あり」と認識できる程度の自己同一性を、近代世界に参加する人なら備えておくべきだ、という価値判断なんだよね。

ではなぜ私たちは、たんなる価値判断を真理だと思ってしまうのか。

それは社会的要請だろう。近代という厳しい時代では、社会秩序を維持するために個人の自己同一性というのが、かつての時代よりもより必要とされているということだろう。

田舎の話なんだけれど、今から40年ぐらい前は、頭のおかしい人というのは案外その辺をふらふらしていて、地域の人もひどく悪いことをしないのなら、まあしょうがないよね、みたいな雰囲気があった。福沢諭吉の「福翁自伝」のなかに、村の中をふらふらするキグルイ女の話があった。「カラマーゾフの兄弟」でのスメルジャコフの母親は、村のキグルイ浮浪女だった。
現代ではもうありえない。
かつて個人の自己同一性というのは、あればよりいいという程度の価値判断だったのだろう。ところが現代では、自己同一性の価値が高まって、ほとんど真理のような扱いだ。自己同一性のあやしげなやつは、とりあえず排除の勢いだ。

いいとか悪いとかいう物ではないのだけれど、単なる価値判断が真理かのように語られるということはある。ニーチェは、真理だと思われているあらゆるものは、単なる価値判断だ、というのだけれど。