「国家」は10章まであるのだけれど、7章まで再読した。実はこの本、8章、9章が強力なんだよね。

プラトンが私たちに関係がないと思ったら大間違いだ。

中学、高校、大学と、将来役に立たないであろう知識を詰め込まれた記憶はないだろうか。数学の微分積分とか、あんなものなんの役に立つんだ? 生物学で、DNAはアデニン、グアミン、チミン、シトシンの4つ塩基から形成されていると習ったけれども、30年間、この知識が役に立ったことは一度もない。
善意に考えたとしても、現代教育というのは壮大な我慢大会なのではないだろうか。普通それぐらいしか思いつかない。

もちろん教育という国家の根幹が、たんなる我慢大会であるわけがない。日本の近代教育はヨーロッパを模範にしているだろう。特別に研究したわけでもないけれども、理系科目のヨーロッパの影響というのは、ほぼ100パーだろう。そして、ヨーロッパ近代のあの合理性というのは、プラトンにその起源を発しているだろう。 すなわち、私たちが学生時代、数学なんかでその魂を削られた原因というのはプラトンにある。

「国家」において、ソクラテスは「正義を救ってくれ」と懇願される。どういうことかというと、この世の中、多くの物や観念は何らかの役に立つという理由で存在が許されているわけなんだけれど、「正義」ほどの重要観念ならそれ自身の中に存在の価値を確立して欲しいという。「正義」というものが、人から評価されるとかお金が儲かるとか、そういう下賎な価値で支えられるというのではなく、正義が自らの足で立つにはどうすればいいのかというわけだ。

結論から言うと、プラトンは「正義」とは一体性というものと同義であると言うんだよね。
国家というもので考える。
国家とは血縁でもない多数の人々が身を寄せ合う集団だ。このような国家において、正義を彫刻するためには、国家の成員たる個々人が能力に応じてやるべきことをやり、優秀な指導者を選抜して全体を秩序付け、外に対しては独立を保つという。
いわれてみると、このような国家の周辺には「正義」が立ち現れているような気がしてくる。

正義を示現する強固な一体性を保持する国家の指導者には、どのような選抜、どのような教育がふさわしいだろうか。
一番よくないのは、物にとらわれるということだ。役に立つから価値が高いだろうとか、そういうゲスな勘ぐりは、一体性の保持を目指す正義国家の指導者にはふさわしくないだろう。価値は、外にあるのではなくその中にあるのだから。
指導者にふさわしい教育というのは、物の価値を見定めることではなく、物のむこうにある真理を感得することだ。物にとらわれてはダメなんだよ。

太郎さんが3個のりんごを持っていて、1個食べました。残りは何個でしょう。
こういう問題に、元気に2個、とか答えているようでは話にならないんだよね。物のむこうにある真理を感得することが必要だ。「太郎さん」とか「りんご」とか「食べた」とか「何個」とか、そんなものは物の価値であって意味がないんだよ。大事なことは、3-2,1 ということだけだ。 これの延長線上に数学がある。

これすなわち、プラトンの一体性国家の指導者を養成するための、選抜、教育と同型だろう。

日本は別に西洋から教育制度を借りているだけで、実は変幻自在の国だろうと思う。辺境国家の強みだ。しかし西洋自身にとってはどうだろうか。逃れられない呪いとなっているのではないだろうか。近代西洋哲学は、プラトンをひっくり返そうとして、どうしてもそれが出来ない。ヘーゲルもニーチェもハイデガーもフーコーも。

確かにプラトンの言説は強力なのだけれど、「国家」の7章まで読む限りは、どうしても相対化できないというものでもないようにも思われる。しかしプラトンの本領はここからだから。