岩波文庫の「国家」上巻まで読んでみた。

プラトンは対話を通じて、正義の国家とはどのようなものか、ということを考えていこうという。
何を根拠にしての正義なのかという問題がある。キリスト教の聖書を根拠にした正義というものなら、キリスト教に関係ない人たちにとっては受け入れられない。
プラトンは正義の根拠を何に置いたのかというと、合理性だ。国家が合理的に運営されれば、外敵に対しての抵抗力が高まり、国家の存続ということがより保障される。そして、内的に判断すれば、その合理的国家とは厳格な兵営国家のようなものだ。優秀な人材を男女問わず国民から選抜し、選抜されたエリート集団は、私有財産を認められず国家のために尽くすことを義務づけられる。エリートになっても何もいいことがないかのように思われるかもしれないが、結果を残したエリートには国家から名誉とより子孫を残すための権利が与えられるという。

この合理的国家というものは、どこまでも大きく出来るというものではない。合理性を維持できる限界というものがある。プラトンも「国家」の中で、正義の国家はその範囲を広げすぎないよう注意しなくてはならない、と書いてある。
合理性に根拠を置いて正義を判定するというのは、一つの見識だと思う。それも有力な見識だ。合理性とは一体性のことだ。何のための合理性かというと、結局はある集団の一体性を維持するためのものだ。

このことを人間の個体で考えてみる。一人の個体を国家と考えてみる。大人になれば多くの人が気がつくのだけれど、この社会でそれなりに生きていくためには、自分が自分であるということの確信、すなわち自分の一体性というものが何より必要だ。その一体性の根拠を何に置くか。親が金持ちだとか、学歴が高いとか、まあそういうのもいいだろう。しかし、そのような根拠というのは、自分のそとにあるものであって、はっきり言って信ずるに足らないという面はある。自分の内部に自分の一体性の根拠を持とうとしたら、それは何によってか。
合理性によって。合理性の確信によって。 本当にそれは一つの見識だと思う。

一つの見識が唯一の見識となったとしたらどうだろうか? 
ここまではプラトン「国家]の上巻だ。全ての西洋近代哲学はプラトンの脚注にすぎない。プラトンの渾身の呪いの言葉は、下巻のほうにある。