ソクラテスは、「正義を救ってくれ」と頼まれる。 そこから正義をめぐる対話が始まる。

正義の個人というのでは対象が小さくて正義を判定しにくいということで、正義の国家について論じ始める。正義を体現した理想国家というものを、ちょっと想定してみようということになる。
普通の感じで始まる。 国民がやるべきことをやる。靴屋は靴を作り、大工は家を建てるっていうような。次に、正義国家の指導者たるものは、特別に選抜養成しなくてはならない、と来る。そのためには全国的な教育システムもなくてはならない。ここまでは現代でも受け入れやすいのだけれど、この後がちょっときつくなってくる。
正義の教育を貫徹するために、くだらない言論や芸術というのは規制の対象になる。表現の自由というのは尊重されないみたいだ。
さらにきついところが、肉体的精神的に劣ったものは排除されるべきだ、というんだよね。特に、そのようなものは子供はつくるべきではないという。優生学的な考え方を展開してくる。

現代生物学では獲得形質は遺伝しないというのは鉄則だ。体をいくら鍛えても、そいつの子供がマッチョで生まれてくるわけではない。数学をいくら究めても、そいつの子供が数学的知識を持って生まれてくるわけではない。生後に獲得した形質は、子供には遺伝しない。
獲得形質に限れば、優生学は成り立たない。

優生学の権威を決定的に貶めたのがナチスドイツだ。「わが闘争」においてヒトラーは、遺伝的に劣るドイツ国民が子供を残さないという選択をしたなら、そのことは決して恥ではなくドイツ国民としての名誉である、とさえ言い切った。

第二次大戦後におけるプラトンの評価の低下というのは、プラトン正義国家とナチスドイツとの相似にある。
しかしプラトンの「国家」という本は、優生学的正義国家だけでは終わらない。 ここからが本番なんだよね。