ハンナアレントは、3つの人間の活動力を、「労働」、「仕事」、「活動」、分割しようという。
活動力を分割した一つが「活動」というのが、読み始めて微妙な感じがする。
実際、第5章 「活動」まで読んで判断すると、活動とは人間が自分が自分であると思うところの自己同一性のことだろう。 これは無理な解釈というのではなく、精神活動がうまく循環すれば、自分の心持というのを強くもてるわけで、精神活動を自己同一性と同義と考えて問題ないと思う。

第5章「活動」の冒頭、
「労働的動物は生命過程の反復的サイクルに閉じ込められている」
とある。現代でも、繰り返される日々の労働にウンザリするということは日常だよ。労働に倦んだ精神がどうすれば救われるかというと、
「製作によって維持される世界性」
という。職人となって納得できる物を作れるようになったなら、この空しい日常が救われるんじゃないかという。 まあでも、なかなかそうはいかない。人間国宝でもない限り、造りたいものを造ってそれで評価されるというも、現代では難しいだろう。では、どうすれば職人は救われるのか。 「無意味性から救われるのは、活動と言論という相互に関連した能力によってのみである。

このハンナ女史の論理をどう判断するべきだろうか。

彼女は明言している。救われるためには活動、すなわち自己同一性が必要だと。彼女はナチスのような全体主義の病根を探るためにこの本を書いたのではないのだろうか。 ナチスを支持したような人たちは、第一次大戦敗戦後の混乱したドイツで、自らのアイデンティティーを失った人たちだろう。 アイデンティティーを失ったひとたちに、無意味性から救われるためには、アイデンティティーが必要だとか言ってみても、何の意味もないと思う。 ハンナ女史は、まぎらわしいことを言っていても論理の入り口と出口が同じだろう。

第6章をいまだ読み残しているけれども、彼女の論理の着地点は見えてきた。 この程度の論理では、プラトンやヒトラーの言説をひっくり返すことは出来ないだろう。