ソクラテスとプロタゴラスは、「徳」とは教えることが出来るのか出来ないのか議論した。
ソクラテスは徳は教えることが出来ないと主張した。徳があるとされている人たちの子供が必ずしも徳があるとは限らない。徳が教えることが出来るのなら、例えばペリクレスの子供は必ず有徳な人物になったはずではないか。
ソクラテスの意見に対して、プロタゴラスは徳は教えることが出来ると主張した。
プロタゴラスはこのように言った。

「彼らは子供達を教育せず、十分な配慮もしていないというのだろうか? いや、ソクラテス、していると考えるべきだよ。
彼らはね、まだ子供が小さい頃から始めて、子供が人生を歩み続ける限り、教育としつけを行っているのだ。
それでは、父親が優れているのに、その息子の多くがつまらない人間になってしまうのはどうしてか?
  それでは、われわれ全員が笛の演奏家でないと、国は成り立つことができず、各人は可能な限りの演奏力をもたなければならないと仮定してみよう。私的にも公的にも、全ての人が誰にでもその技術を教えてやり、技術を与えるのを惜しむもの等いないとする。ソクラテス、その場合きみは、すぐれた笛の演奏家であれば、劣った演奏家の息子よりも、優れた演奏家になる見込みが少しでも高くなると思うかね? 私はそうだと思わない。にもかかわらず、これらの息子達が、みな十分な笛の演奏家であることも事実なのだ。何も知らない素人と比較するならね」

すばらしい啓蒙思想だ。「プロタゴラス」という本の中で、ソクラテスは反論が出来なかった。 この論理は、現代においても極めて受け入れられやすいだろう。例えば、発展途上国がいつまでも発展途上国なのは、教育が足りないから啓蒙の力が足りないからという先進国の受け入れやすい論理に簡単に帰着しえる。

しかしこのプロタゴラスの論理を注意深く読んでみる。
まず「徳」とは何か。プロタゴラスは、「われわれ全員が笛の演奏家でないと、国は成り立つことができず」 と仮定しているところを見ると、「徳」とは人間集団の一体性を支えている何かだというのは認めているわけだ。 親は子供に教育やしつけをしているのだけれど、プロタゴラスはそのことを「笛の技術の習得」にたとえて、そのあとの論理を展開する。 しかしここの、徳を技術の習得的なものにたとえることに、論理の飛躍があるのではないだろうか。 だって、「人間集団の一体性」と「技術の習得度合い」というのは、直接的に関係性を持つものではないだろう。
不思議なのは、啓蒙思想ではなく、私たちがなぜ簡単に啓蒙思想を受け入れてしまうのか、ということだ。

自分の所属する世界観自体を問題にするような場合、だいたいにおいて相対主義、ポスト構造主義みたいになるのだけれど、プラトンは「プロタゴラス」以降の著作で、まったく巨大に解決した。啓蒙主義を相対主義に陥ることなく、巨大に再編成してみせた。

プラトンって本当にすごいなって思う。だって、自分で問題を提出して、自分でその問題を巨大に解いて、2500年間、他の追随を許さないっていうのだから。