「超国家主義の論理と心理」というのは、丸山眞男の1946発表の太平洋戦争の原因を探求した有名な評論だ。
この評論が、「戦後リベラル」の基礎構造になっているのは、ほぼ間違いないと思う。長い評論でもないし、難しい論理構成でもないので、私なりに要約してみる。

「戦前の日本人の精神構造は、上のものにペコペコして下のものには威張るという、抑圧の移譲によってその精神を保つというものだった。日本人の一番上は天皇なのだけれど、昭和天皇というのは戦前においてすでにほぼ飾りだった。日本人の一番下というのは植民地や占領地の人々だ。 一番上が飾りなのだから、政治的には無責任の体系になるし、一番下が、植民地や占領地の人々なのだから、日本人は彼らにひどいことをしてしまった。太平洋戦争というひどい戦争をしてしまったのは、上のものにペコペコして下のものには威張るという日本人の弱い精神に原因するものだ」

論理的にはこれだけの事しか言っていない。現代にこの評論を読むと、ちょっと変な感じがする。
上のものにペコペコして下のものには威張るなんていうヤツは、現代においてもいっぱいいる。神経症発症一歩手前のあんなやつらが、超国家主義の原動力だった? マジ? あんな空気みたいなやつらが? 原動力?

丸山眞男のこの評論が、戦後強力な力を持ったのは、ある意味必然みたいなところがあるだろうと思う。
この評論の論理は、戦後の日本人に広範に受け入れられやすいということはあっただろう。

戦争の原因は、弱い精神であって悪い精神ではないというのだから、戦争でやっちゃった感がある人も受け入れやすい。
知識人には、精神的に弱い日本人を強く導くなんていう任務が与えられたりする。新聞メディアなんかは大喜びだったろう。
戦争中に日本が勝つために自立した強い精神をもって頑張った人、このような人はかなり多かったと思うけれど、これらの人は丸山の評論に反論などはしなかっただろう。 戦争は負けたわけだし、強い精神を持った人間は、時代が変わっても強く生きていけるわけだし、強がりの反論をする必要がないから。

すなわち、「超国家主義の論理と心理」という評論は、正しいから受け入れられたというものではなく、受け入れられやすいから受け入れられたというものだろう。
この評論の違和感みたいなものはいろいろある。 空気みたいなやつらが? 原動力? ということも指摘した。さらにもう一つ指摘してみる。
丸山は、戦前の日本人の精神は弱かったという。ヨーロッパの近代国家の国民のように「近代的人格の前提たる道徳の内面化」ができていなかったという。では、道徳の内面化とは何か? ということになる。 戦後において、一神教的な神を心の中にもてない人間は弱い人間だ、という論理に帰着しがちなんだよね。 しかし常識的に考えて、このような論理は認められない。 道徳の内面化とは、絶対神とか関係なく、自分が自分であるという自己同一性の強度に関する問題だ。戦後のリベラル教育で、私たちは自己同一性を強化してくれるような教育を与えられただろうか? 
おい、近代的人格の前提たる道徳の内面化ってやつをやるんじゃねーのかよ。
簡単に宣言してみたけれど、実際にやるのは難しかったという。実際にやったことは、自己同一性の怪しいヤツは別室待機みたいな、ある意味切り捨てだ。自立した強い精神というのは、弱い人にこそ優しいものなのではないのかな。

丸山眞男と戦後リベラルは、いまその力を、本当に失ったと思う。