大江健三郎のデビュー作、「奇妙な仕事」

読んで驚いた。これは村上春樹だよ。話自体は大学病院の不要になった実験動物の犬を150匹殺す話で、登場人物は4人。
犬の殺し方にこだわりを持つ、30歳ぐらいの犬殺しのプロ。後3人はお手伝いのバイト。犬殺しに根本的な疑問を持つ院生の男と、クールで芯の強い若い男と女。

構造が村上春樹の「ノルウェーの森」そのままだと思った。どういう構造かというと、まじめで弱い人間を踏み台にしながら、こだわりを持つ男に支えられて、クールな男と女はいい感じで盛り上がるということ。話の構造も似ているのだけれど、「奇妙な仕事」の主人公の男の話しぶりが、「ノルウェーの森」の主人公とかぶるような。「奇妙な仕事」の主人公と女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみる。  

「たいへんだな、と目をそむけて僕はいった」
「火山を見に? と僕は気のない返事をした」
「君はあまり笑わないね、と僕はいった」

同じ構造、同じテンションで、同じようなことを言われると、そこには否定しがたい同一性が認められると思う。
次作、「死者の奢り」も似たような感じだ。「死者の奢り」のなかで主人公はこのように言う。
「僕は希望を持っていない」 
この主人公は、あらゆる価値観を対等だと考えている。何かに熱中するとかはない。価値観の序列がないから。
このあたりまでは村上春樹と同じなのだけれど、大江健三郎は早々と新たな一歩を踏み出した。

「飼育」以降、大江健三郎は、なぜ戦後の若者は、全ての価値観が対等だなどという奇怪な世界に落ち込んでしまったのか、ということを問い始めた。 結果として、これはすばらしいチャレンジだった。
人はどうすれば救われるのか、というのが、「セブンティーン」以降の問題意識となった。
「セブンティーン」では、主人公の青年は皇国思想によって自らを救おうとした。
「空の怪物アグイー」では、主人公は狂気によって自らを救おうとした。
「レイン.ツリーを聴く女たち」は、救われないというか、救いようのないオヤジの話だった。
大江健三郎には光くんという知的障害の長男がいる。
「無垢の歌、経験の歌」では、この光くんがどのようにしたら救われるのかという話だった。

そしてついに論理は逆転する。

大江健三郎は、デビュー作から、「この世界で人はいかに救われるか」 ということを書いてきたと思う。そして、子供に知的障害児が生まれて、小説のテーマが「この子は、この世界でいかに救われるか」というところに収斂する。 これは難しい問題で、正直、口に出してはいわないけれど、障害者やボケ老人なんてこの世界にいない方がいい、なんて思っている人はかなり多いと思う。しかし「新しい人よ眼ざめよ」で、ついに論理は逆転する。

大江光さんには、この世界で生きようとする意志がある。タクシーの運転手に、ぼっちゃんはたいしたもんだなー、がんばってくださいね、と話しかけられたとき、大江光るさんは、
「ありがとうございました。がんばらせていただきます!」
 と答えた。
学校の合宿に出かけるとき、大江光さんは、父大江健三郎にこのように言う。 
「しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか? パパはこのピンチをよく切りぬけるでしょうか?」

救うものが救われて、救われるものが救う。

「火をめぐらす鳥」のなかで、「私」は障害者の息子と、死後のそれぞれの魂が、より大きい魂の集合体みたいなものに共に合流することを夢見る。しかし本当のところは、「私」は独力で魂の集合体に合流することは無理だろう、そして息子にそこまで一緒にだよ、自分を導いて欲しいと思っている。論理は完全に逆転しただろう。 救うものが救われて、救われるものが救う。

渾身の文学だと思う。

「大江健三郎自選短編」のあとがきに、大江健三郎は自らの短編を、その古い順番で読んでいくと、戦後日本の精神史になっていると書いてある。   
大江さん、またまたご冗談を。  
大江健三郎の小説世界は、精神史とは対極にあるだろう。精神史とは、イデオロギーの遍歴に伴う時代の雰囲気の変化の記述方法であって、大江健三郎の小説世界の本質とは何の関係もない。では、大江健三郎とは何者か。大江健三郎の小説世界の本質は、救うものと救われるものとの「いれかわり」だと思う。

これは日本の古い記憶だよ。

和辻哲郎は、
「日本神話においては、祭られる神は同時に祭る神だという性格をどこまでさかのぼっても備えており、祭祀の究極の対象は漂々とした時空の彼方に見失われる」
と書いている。ここにおいては、祭られる神は同時に祭る神であるという構造が重要なのであって、いかに祭られるかということは重要ではない。祭る方法というのは、その時代の様々なイデオロギーを採用して問題なし、という態度だ。

大江健三郎の小説世界は、この日本神話の方法論をそのまま採用しているだろう。彼の小説の中では、西洋の洒落た作家、詩人などが引用される。ダンテ、ブレイク、マルカム・ラウリー。しかしこのような言説は、体系となって大江作品の根幹を支えているというわけではなく、日本神話特有の空洞を埋めるための素材の単なる集合に過ぎない。飾りみたいなものだ。当たり前の話であって、大江健三郎の小説世界の本質が、「自分」とイーヨーとの関係性にあるとするなら、ダンテやブレイクの言葉がイーヨーに届くはずはない。イーヨーは難しい論理を必要としていないのだから。  

「火をめぐらす鳥」という短編の中で、大江健三郎が、幼いイーヨーを肩車して林の中を散歩する場面がある。イーヨーは知的障害者で、いまだ言葉を発しない。鳥が鳴いていて、大江健三郎は「何の鳥が鳴いているんだろうね」とひとりごちた。すると天空から、「それは、クイナです」という声が聞こえた。イーヨーが始めて喋ったという。 
これって、日本書紀にも同じような話があったと記憶する。私が日本書紀を読んだのもかなり前だから、どこにこの話があったのか指摘することも出来ないのだけれど。
大江健三郎は、ブレイクについては語るけれど、日本書紀については語らない。  

明らかだと思う。
  
大江健三郎の小説世界の本質は、古い日本の記憶の側にあるだろう。
大江健三郎の出身地というのは、伊予の喜多郡の北東部。もう土佐に近いところだ。宮本常一の「土佐源氏」を読んでみてほしい。西日本を高みから見下ろす秘境みたいな場所だ。 大江健三郎という作家は、戦後日本の都市中産階級を代弁する者ではないと思う。