大晦日の朝に、「火花」の感想をだらだら書こうかという。昨日の会社の大掃除で、ゴミ箱から「火花」を発見して回収。  漫才師の先輩後輩の話だった。この本の冒頭、語り手の漫才師の後輩というのが、熱海の花火大会の前座みたいな感じで漫才をする。時間調整の失敗で、漫才が終わる前に花火がドンドンとあがりだした。 もうこの時点で、私、この本の題名は「花火」だと思い込んじゃって、家に帰って妻に、
「おーい、又吉の花火、拾ったよ」
と言ったら、横にいた小5の次男に、
「火花じゃねーの」
と間髪いれずに突っ込まれた。拾った本の題名をよく見ると、確かに「火花」だ。我が家に帰った早々、ぐうの音もでないという。 火花の出だしが花火だなんてまぎらわしいんだよ と、心の中で逆切れする。  この小説自体は私小説みたいな感じで、個人的には共感が持てる。小説という表現形式は、読者を楽しませようとすると、外は言葉で飾って中はがらんどうみたいなことになりがちなんだよね。ミステリーが典型だろう。ミステリーが悪いというわけではない。ミステリーとは小説という表現の中で、読者を楽しませるために開発された形式内形式だから。ミステリーとは、その中身は空洞であるということは、それを読む誰もが知っていて、したがってミステリーに人生の教訓を求めようなどという読者はほぼ存在しない。 小説という表現形式のさらに純粋化されたものがミステリーといえるだろう。 小説の本流がミステリー的なものだとするなら、その本流に反旗を翻すものが、純文学、私小説、だろう。小説という体制内で、反体制の旗を掲げるのだから、どうしても本物の純文学には哀愁が漂う。太宰治も坂口安吾もそうだった。この哀愁は、小説という表現形式内では完全には表現できない、そういう構造になっている。だから哀愁なのだけれど。  「火花」の語り手の先輩の漫才師というのは、この哀愁にあふれている。「おもろい」ということを突き詰めすぎている。 出来ることなら、このような先輩漫才師のような人生でありたいと、私も思う。 最初の花火の場面。ぜんぜん受けなかった後輩の漫才の後、先輩が、 「かたきとったる」 いうて舞台に出て、やった漫才というのが、誰が天国に行けて誰が地獄に行くかという流れで、観客を一人ひとり指差しながら、
「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、、、、」
と絶叫するものだった。 最後、後輩の漫才コンビが、引退の時に漫才というのが、これから自分は反対の意味のことを言います、という流れで、観客を一人ひとり指差しながら、
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、、、、」
と絶叫するものだった。 伏線は回収されて、小説物語は閉じて、最後に輝く先輩だけが、世界の外に取り残された。