吉田松陰の「講孟箚記」というのは、孟子の言説を逐一、吉田松陰が注解するみたいなもので、まずもって「孟子」を読んでいるということが前提のものだ。 「孟子」はべつに長いものではなく、岩波文庫で上下二巻で出ている。  「講孟箚記」の世界観というのは、「孟子」を超えようとしながら、結局「孟子」にとどまるみたいな感じだと思う。 もう少し詳しく言うなら、まずもって孔子というのは、修身、斉家、治国、平天下、という序列を大事にして、それぞれのカテゴリーの関係性の循環というのを期待した。すなわち、自分が自分であるという自己同一性(修身)を基礎に、家族、親族の一体性を確立して(斉家)、親族に押し上げられた男たちが国家を支えるという期待を背負い(治国)、その結果、世界が平和になるという(平天下)。これら四つのカテゴリーの関係性が、互いを互いにフィードバックしあうことによって強化され、結果として世界に秩序が形成されることを、孔子は期待したわけだ。 孟子は、この四つのカテゴリーのうち、斉家と治国をちょっとレベルダウンさせて、修身と平天下を直接結び付けようとしている。 例えば、舜は父親の許可を受けずに嫁をもらったのは、しょうがないところもある、みたいなことを孟子は言っていて、これは斉家をちょっと低く見ている証拠だし、孟子の君主に対する態度はかなり尊大で、これは治国をちょっと低く見ている証拠だ。  講孟箚記は、この孟子の斉家と治国を低く見るところを批判してはいるのだけれど、修身と平天下における孟子の強調具合は認めている。 しかしそもそも、孟子の修身と平天下の強調というのは、斉家と治国を低く見ることから発生しているわけで、吉田松陰がいくら斉家と治国を持ち上げようとしても、孟子を箚記する限り、このことは成功しえないんだよね。  これを突き詰めれば、個人と世界というものを直接結びつける(日本の場合、世界とは天皇を意味することになってしまうのだけれど)ことになる。 世界というものが、日本において天皇に結びついてしまうというのは、しょうがない所もある。孟子の世界においては、世界は統一されたことがあった。周や殷によって。しかし、近代人においては、世界はいまだ統一されたことがない。統一されたことのない世界において、日本人が世界認識の実感として、天皇を持ち出したとしても、これは別に日本の未熟さともいえないだろう。世界が統一されたことがないのは、日本の責任ではないのだから。  さまざまに条件の整っていないところがあるのだけれど、個人と世界を結びつけようとする言説って、本当に魅力的だよね。