この本だけは何回読んでもすごい。 丸山真男は「日本の思想」という評論の中で、「日本の思想は伝統的に座標軸が欠如していて、あらゆる外来思想を等価値に自分の中に抱え込み、時代にふさわしい価値観をそのつど取り出すというスタイルだ」 と言っていた。 はっきり言って、これは丸山の認識不足だね。 吉田松陰が孟子をてこに、幕末の世界観を持ち上げようとして、それが明治維新として結実したということは、日本には、伝統的に思想の座標軸が存在していたということの証明だ。  確かに、孔子とか孟子とかの言説は中国のもので、日本固有ではないのだけれど、そんなことはたいした問題ではないだろう。 そもそも日本には、紀元前の記録などはない。弥生時代に思想の座標軸を探したって意味ないんだよ。春秋戦国に生きた孔子孟子に、日本思想の座標軸が設定されているからといって、別にそのことは日本の恥でもなんでもない。 日本語というものすら、漢文を読み砕くために成立したのではないかと、私は思う。 漢文を読むために成立した日本語の以前に、どのような言語が日本に存在していたのか、そのようなことはもう誰にも分からないことだろう。   最近の歴史教育では、吉田松陰をテロリストだと規定しようとする考えがあるという。 ひどいね。 吉田松陰を読んだことがないのだろう。戦後の知的レベルの低下はひどい。 確かに、吉田松陰の文章は書き下し文調で書かれていて読みにくい。しかし、書き下し文などというものは、日本語の範疇であって、半年も訓練すれば読めるようになる。半年の訓練も怠り、読みもしない吉田松陰をテロリストなどと断定する知識人なるものを、私は信用しない。 吉田松陰の「講孟箚記(こうもうさっき)」は、渾身の言説だ、血で書かれた文字だ。 このような書物は現代にはない。 この世界で生きる意味を失うってことは、ありがちだと思う。そういう人は、死ぬ前に、一度ちょっと奮起して「講孟箚記」を読んでみればいいと思うんだよね。 そう、テロリストの言説ってやつを。