論語の基本的世界観というのは、個々人の自己同一性と世界の自己同一性が、互いに互いを強化しあうというシステムにある。このシステムが作動した場合、世界に秩序が形成されるであろうということだ。  人間は社会的な動物だといわれるけれども、人間世界において、秩序とは無条件に与えられてきたわけではない。社会秩序というのは、結構簡単に崩壊する。ローマ帝国しかり大漢帝国しかり。ローマ帝国や漢は、そのあとを継ぐ文明に恵まれたからまだ救われるけれども、崩壊してそのまま消えてしまった文明もいくつもある。 社会秩序というものは、人間の能力のギリギリのところで成立している。キリスト教圏やイスラム教圏は、一神教的絶対神を仮定することで、広範な地域の秩序を維持する選択をした。こういうことを言うと申し訳ないのだけれど、そのような絶対神なんているわけない。もしいるとしても、地球の一部の地域を優遇するようなおめでたい選択をするわけない。 しかし、キリスト教圏やイスラム教圏は、このような当たり前の事を認めるわけにはいかない。なぜなら、絶対神の非存在といことを社会的に認めてしまったら、社会秩序の柱を失ってしまうからだ。 暗闇の中で彷徨うことほど恐ろしいことはないだろう。  これに対し、論語の世界観というのは、一神教的絶対神を導入することなく、社会秩序を形成しようとするものだ。すなわち、個々人の自己同一性と世界の自己同一性が、互いに互いを強化しあうというシステムということになる。 個々人の自己同一性というは、論語においては狭義の「仁」ということになるだろうけれど、世界の自己同一性とは「聖人」に象徴されるだろう。 では聖人とは何か。 殷(いん)の湯王(とうおう)の発言。    尭曰第二十 507    「選ぶこと帝の心にあり。朕(わ)が身、罪あらば万方(ばんぽう)をもってすること無かれ。万方(ばんぽう)罪あらば、罪、朕が身にあらん」 帝とは、天のこと。万方とは、天下の人民のこと。 論語世界において、天は人間価値観の具体的指導を行わない。ただ、存在非存在の現前によって運命的裁定を行うのみなんだよね。 私なりに湯王(とうおう)の発言を解説すると、「自分は全力で人民の秩序を願うのだけれど、もし自分の力が足りない時は、それは自分の責任であって、人民の存在を無に帰すのはやめてほしい、私の存在を罰して欲しい。もし人民の力が足りないとするなら、その一切は自分の罪である」 ということで、これはある種激烈な決意なんだよね。論語世界においては、その最も大きい枠組みにおいて、個々人と聖人との自己同一性をめぐる循環によって、その秩序を維持していこうというわけだ。  こう考えると、日本が神なくして秩序を維持しているのは、このような論語世界に依存しているからだろう。