大して期待せずに見た。主演はキムタクだし、1vs300というキャッチコピーだし。 予想に反して、内容はすばらしかった。 映画という表現形式における評価の基準とはなんだろうか。私たちは、何を持ってこの映画は面白いとか、面白くないとか判断しているのだろうか。 私は、なんらかの「整合性とその根拠」が、その映画内で表現できているかどうか、にあると思う。 「無限の住人」という映画の中で、主人公の剣士は不死の体を与えられている。不死こそは、現代における人間の夢だ。その夢を、主人公の剣士は体現している。 不死とは何か、それは完全な整合性だ。 ここからここまでみたいに、時間が区切られてしまった場合、そこには完全な整合性は存在しえない。整合性を救うためには、過去に天国を設定するか、未来に天国を設定するか、それとも、永遠の時間を生きるか、のどれかしかない。 現代は、永遠の時間を設定することによって、その整合性を維持している。ヘーゲルは、歴史とは様々な地域の競合による進歩によって、個人の精神が確立、解放される過程のことである、と考えた。このヘーゲル的世界観には、永遠の時間というものが設定されている。 しかし、この世界観で世界は救われるかもしれないが、個人は救われないだろう。個人の時間は有限だから。人は必ず死ぬ。 このギャップは根源的には埋められないのだけれど、個人的に、「自分は永遠に生きる」 と思い込むことは出来る。 じつは、このように思い込んでいるヤツは、現代社会においてかなり多い。 自己評価が高く態度のでかいヤツは、たいがいこのパターンだ。 そして、まがい物の整合性に本物の整合性がぶつかったらどうなるか?  どんな天才でも、本物の整合性には勝てない。世界の整合性における個人とは、金や名誉や才能や奇妙な思い込みによって救われるものではなく、自らの整合性を他者との関係により、より強化することによってのみ救われる。 「無限の住人」という映画は、この辺をうまく表現していたと思う。 (以降 ネタばれあり)  そして、あとは整合性の根拠なのだけれど、この映画においては、キムタクに敵討ちを頼む女の子だね。このこはキムタクの昔の連れに似ているという。ただ似ているだけで、整合性の根拠としては薄弱なのだけれど、なんせ主人公が整合性の化け物だから、根拠を敢えて薄弱にしている。このへんは、うまいと思った。キムタクの昔の思い女性は、キムタクのことを「兄さま」と呼んでいたのだけれど、敵討ちを頼む女の子は、キムタクのことを、ことあるごとに「兄さん」と呼んでしまう。 そして最後の最後、死にゆくと思われたキムタクに、女の子は「兄さん」語りかけ、キムタクに「兄さまだろ」と突っこまれる。整合性の完全性と、その根拠の薄弱性のコントラストがすばらしい。 この映画は、今年の実写邦画ではおそらくベストだろう。