「顔淵死す 子曰わく、噫、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせり」


顔淵は、孔子の最高の弟子。 

その顔淵が若くして死んだ時、孔子は、

「ああ、天は我を滅ぼせり、天は我を滅ぼせり」 

と嘆いたという。 
天というのは、西洋の一神教の神とは異なり、人間世界内の価値判断は行わず、ただ存在の可否を事実で示すだけだ。 

正直思うのだけれど、一神教の神が人間の価値を判断するって、日本的価値観からすると不気味だよね。一神教の神は、例えば、バッタ世界内において、バッタ個体間の価値判断とかもやっているのかな。このバッタはバッタの天国行きだとか、このバッタはバッタの地獄行きだとか。 

ありえない。  

おそらく、一神教の神の価値判断は人間世界にしか及ばないという設定なのだろうけれど、常識的に考えて無理があるよ。いくら西洋が経済が発展していて、近代において世界のメインストリームだったからといっても、無理なものはムリ。西洋におもねて、一神教的世界観をよいしょするというのは、全く違和感しかない。  

「天は、存在の可否を、ただ事実で示すのみ」 という孔子の考えは、しっくりくる。これこそ常識的な考え方だろう。  

しかしこの「常識的な考え」はいったいどこから来たのか。 

この世界には、多くの「常識的ではない考え」を持つ人たちがいて、そのような人たちは、自分達の認識こそが「常識的な考え」だと思っている。 
日本の常識感の根源は、もしかして、論語からではないのか。 

日本では、応神天皇の時代に百済から論語が伝えられたという国史がある。 

応神天皇だよ。 

ウィキによると、応神天皇の在位は、西暦270年から312年だ。 
日本書紀が完成したのが、西暦720年だから、応神天皇の時代というのは、日本の先史時代はるかだ。  もちろん論語の成立は、さらにさかのぼるだろう。 

戦国中期を生きた孟子も、論語を明確に認識しているから、論語の原型の成立というのは、紀元前300年以前だということは疑いない。   

「ああ、天は我を滅ぼせり、天は我を滅ぼせり」  

この言説は、日本の歴史を、その根源から貫いていると思って、ほぼ間違いないと思う。

関連記事