南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人間も西方十万億土にある浄土に駆け上る事ができる。

浄土宗はそう教えます。

これ、現代から見れば正直とぼけたたわごとみたいに聞こえます。しかし親鸞はこれを突き詰めて考えます。例えば念仏というのは何回唱えれば効果があるのでしょうか。唱えれば唱えるほど浄土に近づくのでしょうか。いや違う。阿弥陀仏の力が計り知れないものであるならば、念仏を唱えた回数などという物は問題にならないのではないでしょうか。南無阿弥陀仏と一度唱えれば浄土行き決定。
親鸞はさらに考えます。一度たりとも唱える必要はないのではないか。阿弥陀仏をイメージするだけで即菩薩なのではないか。

突き詰めて考えると言う事はすばらしい。

阿弥陀仏をイメージするだけで即菩薩であるなら、日常の道徳ということはどうなるのでしょうか。例えば親が死んだ時に、葬式はどうしましょうか。そんなものは必要ないですね。全くやらないというと角か立つから、適当にやっちゃいましょう。さらに、親の墓参りなどというものは必要ないですね。親の墓参りをしたとしても、天国とは何の関係もないのですから。

実際、親鸞は地域のコミュニティーを破壊すると言う理由で、時の権力に迫害されています。

もっと突き詰めて考えて見ましょう。

念仏というものは、結局、浄土に行くのに必要がないものなのに、何故仏典には念仏を唱えろと書いてあるのか。
それは方便なのです。
頭の血の巡りの悪い凡人に仏の世界を分かりやすく説明するための、仏が残した「足場」みたいなものなのです。
では、西方十万億土にある浄土なるものは何なのでしょうか。それも方便なのではないでしょうか。浄土とは西方十万億土にあるのではなく、世界のあらゆる場所に遍在しているのではないでしょうか。
では、阿弥陀仏とは何なのでしょうか。それも方便なのではないでしょうか。阿弥陀仏とは何らかの形あるものではなく、何らかのチカラとして世界のあらゆる場所に遍在しているのではないでしょうか。

以上のことをまとめてみると、
世界には人間の運命に決定的な影響を及ぼしている力が存在していて、それを人間は感じたりかんじなかったりしている。
ということになります。これは宗教なんでしょうか。

親鸞はこの普遍的な思想で、日本に住みながら日本的な稲作社会や村社会から外れた人たちを救い上げたのだと思います。
親鸞はすごい。
親鸞には感動した。