子(し)日(い)わく、郷原(きょうげん)は徳の賊(ぞく)なり。 
 
郷原(きょうげん)とは何かというと、善人のふりをする人のこと。善人と善人のふりをする人とは、いったい何が違うんだ、という意見は当然ある。極論を言えば、善人のふりをして誰からも気づかれずそのまま死ねば、もうそれは善人なのではないか、ということになり、この論理に反対することは難しいように見える。    

郷原はなぜ徳の賊なのか。  

徳を、社会の秩序を維持する力、というように概念を絞って考えてみる。 
そもそも論語というのは、単なる孔子の言行集ではない。それぞれのセンテンスが全体として一つの世界観を構成していて、構成された世界観が、それぞれのセンテンスを強化して、さらに強化されたセンテンスが、論語の世界観をより強化する、以下その繰り返しという、驚くべき構造を持っている。 
そして、論語を受け入れた社会においては、同じようなフィードバックが起こりえるだろう。 
すなわち、社会において、ある秩序が形成され、その社会秩序が、社会を構成する個々人の秩序意識を強化して、さらに強化された個々人の秩序意識が、社会の秩序構造を強化するという、以下その繰り返し。 

論語的世界観においては、社会の秩序を維持するために、一神教的絶対神を必要としない代わりに、社会を構成する個々人の内面的善意が必要とされている。 

だから孟子は性善説をとなえたのだろう。 

秩序維持のために個々人の内面的善意を必要としている社会において、善人のふりをするヤツというのは、結局のところ秩序のフリーライダーなんだよ。 

孟子にある、

「孔子は似て非なるものを憎む」、

すなわち「孔子は秩序のフリーライダーを憎む」 ということになるだろう。  

秩序のフリーライダーを別の言葉で言えば、自分だけが救われようとするヤツのことだ。一神教の世界では、自分だけが救われようと考えてもたいして問題はないだろう。他人は偉大な神が救ってくれるであろうから。 しかし、神を持たない世界においては、話は異なる。 

自分が救われるよりも前に、まず人を救わないと。人を救うことによって、世界が救われ自分が救われる。そういう構造になっている。 だから孔子は言うのだろう、「郷原(きょうげん)は徳の賊なり」 と。
 


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